例えば、あなたが営業マンだったとして。
「この契約をしないと、殺すぞ」と言えば契約を取り付けることは出来るかもしれません。
ナイフを突きつけながら話しをすれば、契約がとれるかもしれません。
しかし、もしあなたが営業マンだったとしても、そんな営業をかけない人が多いと思います。
一流企業の一流営業マンであれば、やらないのではないか?という次元の話ではなくて、そんな発想がそもそも起こらないというか、考えたこともない、という感じでしょうか。
考えたとしても、まぁ一発で信用失うだろうし、次はないかもしれないし、捕まるかも知れないし、いやそもそも殺してまで手に入れたいものでもないし、、殺すのは怖いし、、などなど、やらない理由の方が簡単に思いつくのではないかなぁと思います。
しかし。
この普通の感覚が、政治家になると、どうやら希薄になるようでして。
そして、政治に関わる人たちも、どうやら希薄になる。
「相手が無理やり契約をさせようとしかけてくることもあるから、こっちは武装しておかないと。だからいつもナイフを携帯してます。いつでも取り出せるように。でもこちらから攻撃するつもりはないです。場合によっては、自分を守るために使います。仕方がない、それが現実なんです。無理やり契約を迫る人に、言葉が通じないこともあります。話せばわかるなんてお花畑は夢の中でやってください。現実はそうではない。無理やり契約させられるのを受け入れるしかないのですか?私はいやです。だからナイフを携帯していますし、場合によっては殺します。しかしそれは仕方ない。相手が無理やり契約を迫るから、話し合いだけでは解決しないから、やむを得ず殺す場合もあるということなのです。」
マジか、、という理論が、政治の世界では割と普通に語られます。
普通に生活してたら、そもそも考えもしない「場合によっては殺す」が、なぜ考えの中に平然と入ってくるのだろう?と思うわけですよね。
平然と入ってくる。ほんとに。不思議です。
「殺せばなんとかなる」と思ったりはしないじゃないですか、普通に生きてたら。
殺したって基本的にはなんともなりませんし。
国際政治ではなぜ「殺せばなんとかなる」という判断ができるのでしょうかね。
不思議です。
もちろん、政治家になれば「日本人の命を守る」というのが仕事になり、「いざとなれば」という思考になるのだろうと推察します。
悪いことだとは言いません。
しかしまぁ、それでもなお、もうひとつ大切にしていただきたいなぁと思うことがあります。
それは、「日本人と世界の人々ののメンタル(心)の平和を守る」ということです。
戦争反対の理由は様々語られます。
いわく、人殺しは良くないから。
いわく、自分が死にたくないから。
しかし、僕が戦争反対の理由はたった一つです。
僕が人を殺したくないからです。
そして、誰かを人殺しにしたくないからです。
日本人も、他国の人も、殺されて欲しくないのと同じくらい、人殺しにはしたくないからです。
「人を殺した経験のある人間として生きることを誰にもして欲しくない、自分もしたくない」ということです。
確かに戦場において殺されることは、それは辛いものでしょう。
しかし、戦場で誰かを殺し、隣で仲間が次々と死に、そこから生きて帰ったとして。
理由はともかく、人を殺したわけです。
その殺された他国の人々にも人生があり、親がいて、もしかしたら恋人や子供がいたでしょう。
殺された日本の人々にも、同様に。
戦争が終わり、平和の中で暮らす時、自分の周りにはそんな「戦場で家族を奪われ、とり残された」人々があふれています。
「人を殺した経験をせずに済んだ」人たちです。
「仕方なかった、あれは戦争だったから」と、当面の間は自分が殺した他国の軍人には言えるかもしれません。
しかし、全く同じように「仕方なかった、あれは戦争だったから」と言う他国の軍人がいて、その他国の軍人に殺された家族を持つ日本の友人が周りにはあふれています。
「私の夫と息子は戦場で殺された。どうして死ななきゃならなかったの?戦争だから仕方ない?私の夫と息子を殺しておいて、仕方ないで済ますつもりなの?何の恨みがあって!!!」と。
自分が言われていないけど、まるで自分に向けられた言葉のように感じてしまう「人を殺した経験を持つ人間」になってしまった自分。もう「人を殺した経験を持たない人間」に、後戻りはできません。
そんな自分が、「普通の感覚」を持つ「人を殺した経験のない」人たちと共に生きる世界です。
どのように交流していけるでしょうか。
「仕方なかった、あれは戦争だったから」
そう自分に言い聞かせていられるのは、いったいどれくらいの期間なのでしょうか。
あなたの「心の平和」はどれくらい保てるでしょうか。
平和を取り戻した日本で、そんな彼らを見て、それでもなお人は何の疑問もなく「仕方なかった」と思い続けられるのでしょうか。
「あの日殺したあの人にも、この隣人のように家族がいたのだろうか?誰かの人生を奪ってしまった、何十人何百人もの人生を。そして、その人を失った家族の悲劇を作り出したのも自分だ」
ふいに頭をもたげるその自責の念を「いや仕方なかったんだ!自分を責めないでくれ!」と無理やり抑えつけ続ける人生が、果たして将来迎えたい人生なのかどうか。
平和になると、そのうち「あの戦争は何だったのか」と、知らない世代が語りはじめます。
「なぜ殺し合うのか?殺すことはいけないのではないか?なぜ話し合いで解決できなかったのか?仕方なかったとは言い訳ではないか?」などと、知らない世代が隣で語り、本が出回り、テレビで流れ、SNSでやりとりされます。
幾度となく、際限なく、悪意もなく。
そんな「人を殺す経験をせずにすんだ人々」にかこまれて、そんな世の中に生きていく時、平静を保っていられるほど人は強くないのではないかと思います。
「もうその話はやめてくれ、今更どうしろと言うんだ!もう過去は変えられない!そうだよ殺したよ!何百人も!仕方ないというのが気に入らないなら言わないが、でももうどうしようもないじゃないか!当時の自分に何が出来たと言うんだ?もうやめてくれ!わかったよ、悪かった!すまなかった!ごめんなさい!許してくれと言える立場ではないのは分かってるが、だけどもう、どうしようもないんだよ!取り返しもつかない!」
整理できない葛藤と共に生きるんじゃないだろうかと思います。
そして、戦場という狂気の中から帰った時、自分の中には狂気だけが消えずに残ったままでいます。もう平和なのに、自分は狂人のまま。
日本では戦後81年経ってもなお癒えずに苦しんでいる人がいる、PTSDや精神疾患と呼ばれる状態です。
そのあなたの狂気は、平和な中を生きる日本人に向けられ、自分に向けられます。
家族や誰かを暴行したり、自殺したり。
そうしたくないのにやってしまう、、のではなく、暴行している瞬間は「暴行したい」自分になってしまっている。狂人だからです。
人を殺し殺されそうになる経験は、そんな自分を作ります。
平和になった日本と、心の平和が壊れた自分、平和を破壊する行為をする自分。
戦争に勝とうと負けようと、です。
そんな日本を作り出す戦争という行為が「日本を守る」行為なのかどうか、果たしてどうだろうかと。
人を殺す経験をせずにすんだ人々を見て「いいな、羨ましいな、もうこんな経験をする人は出なくていいよ、自分の世代で最後にしよう」みたいな事を思った人たちが、敗戦後の日本にも、勝ったアメリカにも、たくさんいたんじゃないかなぁと思います。
自衛戦争だろうと侵略戦争だろうと、現場にあるのは人を殺すと言う経験です。
そんな人生を、誰かに歩んで欲しいのかどうか。
あなたはそうしたいのかどうか。
戦争とは、勝てばハッピーなのだろうかと。
勝とうが負けようが、未来は悲惨なのではないかと思ったりするわけでして。
僕はそれがどうしても嫌だなぁと思います。
殺された方がマシだ、と言うつもりはないですが、人を殺した経験をかかえて生きることは、殺されるのと同じくらい辛いものだと思えてならないんですよね。
日常生活においても、正当防衛であったとしても、人を殺した経験は、重たい心の傷を背負わせますからね。「正当防衛だし」と気軽に言えるような人生ではありません。
だからとて、正当防衛を否定するつもりではありませんが、「何かあったら、いざとなれば殺してしまえ、そうするしかないだろ!」と軽々しく言うようなものでもないわけです。
「何かあったら、戦争もするんだ!戦い抜くんだ!」心構えは素晴らしいと思いますが。
その戦争は、何を生み出し、人に何を残すものなのでしょうかね。
戦争は人殺しを正当化しますが、戦争が終わってからも人生は続きます。
人殺しを正当化してくれない平和な社会で、人殺しの苦悩を抱える「心が壊れた」人を生み出すでしょう。
先述の通り、政治家になれば「日本人の命を守る」というのが仕事になり、「いざとなれば」という思考になるのかもしれません。
しかし、「日本人には人殺しの経験をさせない、他国の人にも日本人を殺す経験はさせない」こともまた「日本人の心の平和を守る、他国の人の心の平和を守る」ために、日本の為政者の方には大切にしてもらいたいなぁなんて思ったりしますね。
そしてそれは、世界中の為政者たちにも思ってもらいたいなぁと。