【あなたの生活に新しい視点を】深読み気分を満喫するブログ

人生とはなんぞや?人間とはなんぞやー?人生に新しい視点をお届けします

※【深読み気分を満喫するブログ】※

深読み気分を満喫するブログです。

ということで、ブログを開始してみます。

お前ナニモンだ?という感じでしょうけど、ストレングスファインダーで内省がトップにくる「考えるの楽しすぎてタマラン」な人です、とだけとりあえず書いておきます。


これが深読みかどうかは、人が決めることですので、あくまで「深読み気分」と、保険をかけておくあたりから、僕のキャラクターを読み取っていただければ。

扱うネタは色々だと思いますが、扱うテーマは人間社会やら人間心理やら未来予測やらを無責任に深読みしていく感じになるかなと思います。

 

考えるのは楽しいぞぅ!

という事で。

 

ひとまず、過去に別で書いていたブログも混ぜながら、ボチボチ置いていったりしてみます。

よろしくお願いします。

プロの歌は上手いのかどうなのか論

歌が上手い人は沢山いまして。

プロでない方でも、上手い人が本当に多い世界です。

そんな中、「プロなのに下手だな」みたいなことを言われてるミュージシャンもボチボチいます。

プロなのに下手、ちょいと考えてみたいなと。

 

ぶっちゃけた話、プロならば、上手いだけではなかなか惹かれません。

歌のテクニックが沢山使える人も多いのかもしれませんが、テクニックを自在に使えるから感動するというわけでもないと言いますか。

歌の上手さが不要という話ではないですが、下手でも下手なままプロをやってます。

 

プロの定義をしっかりすると、「それでお金を稼げる」人は全員プロです。

上手いか下手かではなく、お金を稼げるかどうかです。それで食っていけるかどうか。

もう少し正確に書けば「お金を払う価値がある」と周りが考えるならばプロ。

 

例え話をすれば、そこらの高校球児よりも足が遅かったり、守備が下手だったり、ボールのコントロールが悪いプロ野球選手はいます。

それでもプロなんですから、野球の上手さが不要という話ではないですが、高校球児より下手でもそのままプロにはなっていますので、それと同じです。

高校球児が「俺の方が足が速い」「俺の方がコントロールが良い」「あんな守備の下手な奴がプロ野球選手かよ!」と言ったとして、事実そうだとしても、それでもなおその選手はプロとして金を払ってでも手に入れたいと球団が求めた選手です。

プロとは「金を払う意味を感じる人」と定義すれば、上手いかどうかは「上手さを評価する人が金を払う価値がある人」ではありますが、上手さに金を払う価値を感じてもらえなければ上手くてもプロにはなれない、ということでしょうか。

下手でも、金を払う価値があると思ってもらえればプロです。

ミュージシャンも同じく。

 

「がなり」だとか「ミックスボイス」だとか「ウィスパーボイス」だとか「フェイク」だとか「しゃくり」だとか「低音も安定してて、高い声が出る」「音抜けが」とか、声の出し方やら音域やら、歌の上手さを定義づける要素は様々ありまして、まぁそれはそれで良いんですけども。

そういうものを持たないミュージシャンもみな「それで食ってるならプロ」という感じでしょうか。

 

中でも、個人的に大切だなと思うのは、声質と歌い回しです。

言うならば、「モノマネしたい」と思えるような特徴を持ってるかどうか。

 

例えば、CHAGE&ASKAのASKAの歌なんて、聞いた瞬間にASKAじゃないですか。あのねっとりとした歌い回しと声質。

LUNA SEAの河村隆一とか、聞いた瞬間に河村隆一。

井上陽水も、玉置浩二も、宇多田ヒカルも、サザンも、B'zも、GLAYも、ミスチルも、BUMP OF CHICKENも、JUDY AND MARYも、サカナクションも、Mrs.GREEN APPLEも、Adoも。

がなろうがファルセットだろうが高音だろうと低音だろうと、何をしようが、関係なく。

上手い下手は色々あれども。

なんせあの声質と歌い回しにこそ意味がある。

外タレなら、ボンジョヴィとか、マイケルジャクソンとか、スティーヴィーワンダーとか。

テクニックはもちろん素晴らしいですが、そうではなくて、個性という点において、です。

 

マイケルジャクソンなんて、あんな変な歌い方してるミュージシャン、他には僕は見たことないです。

変ですよね、あの歌い方。

「アッ!ダッ!パゥ!ヒッ!」みたいなのがそこら中に入る。バラードですら。

普通の歌い方も出来る方ですけど、なんか変な歌い方ですよ。

ボイトレの先生が、「そこで、ダッ!て入れるのが歌の上手い人なんです!はい、ダッ!パゥ!もっと!歌が上手いのはダッ!なんですよ!さぁ!」とか言わないですよね。

変です、あれ。

歌の学校で、絶対に教えない歌い方です。

ダサいって言ってるんじゃないですよ、カッコいいんですよ。

金を払う価値のある歌です。

 

だけど、ボンジョヴィが

「イッツマーイラーイフ!ッダ!イッツナウオーネーヴァー!ッヒ!ッア!」

って歌ったら、そりゃマイケルジャクソンのモノマネじゃないですか。

それはそれでカッコよくなるだろうけど、そりゃもうお金払ってくれないかもしれません。

そんなのアマチュアなんですよ、上手かったとしても。上手いだけの人ではアマチュアです。お金払う価値がないから。

それならマイケルジャクソンにお金払って聞けば良いんだから。

 

このような影響力のあるミュージシャンの登場後には、そのような歌い方を真似るプロのミュージシャンが現れてきます。

BUMPなんかは、出てきた後によく似た歌い方をするミュージシャンが沢山出てきました。

少し投げやりで、放り投げるような歌い方をするボーカル。

ミスチルの後には、少し喉を締めて吐息交じりの鼻にかかるような甘い歌い方をするミュージシャンが。

Adoの後には、「ヒッ!」と息を吸う音を大きく入れたり、攻撃的な発音をする人が。

いずれも「あぁ、影響凄いんだな」と思わせてくれます。

しかしモノマネのうちは埋もれます。お金を払ってもらえません。

オリジナルじゃないから。

どのプロミュージシャンも、誰かが真似をしたくなるような歌声の「オリジナル」です。

カラオケが上手いとか、テクニックがあるとか、それだけの歌い手ならばプロミュージシャンじゃないというか、「DNAの持つ個別の歌声」が、プロミュージシャンの魅力というか。

そのオリジナルを作ったことにこそ、プロのプロたる魅力がある気がします。

「新しい歌唱様式の発明」という感じ。

歌が上手いからプロなのではなく、そこに「お金を払う価値」があるから、プロなのだろうなと。

マライアキャリーのホイッスルボイスにお金を払い、マイケルジャクソンの「パゥ」にお金を払い、桑田佳祐のあの歌い方にお金を払う。歌の上手さにお金を払ってる訳ではなく。

もちろん曲や歌詞やパフォーマンスありますが、あくまでボーカルを切り口にした時に、単純に「歌の上手さにお金を払う世界」ではないというか。

プロなのに下手、まぁそういうのもありますよね、プロとはそういうものですから、という感じ。

 

「あの歌手は歌が下手だ、それでプロなのか?」

みたいな意見がありますが、はいもうプロですよね、だって金を稼げる歌声なんだから。

と思うわけです。

 

「さすがプロミュージシャン、歌が上手いよね!」ではないというか。

歌が上手い人もプロにはなりますけどね。

「なんか下手かもしれんが、カッケー。というかもしかしたらこれを歌の上手さと言うのかもしれん。」みたいな変な勘違い(?)をさせるほどの言語化できない魅力が、プロのミュージシャンにはあるよね。

 

なんて思ったりします。

Mrs.GREEN APPLEの今後

はてさて、1つ前のブログでミセスの新しいアルバム「POPS」について書きましたが、彼らが今後どうなるのだろうかと言う話を少しばかりしたいなと思いまして。

 

前のブログに書きましたが、あのアルバムはまぁ原液でした。

で、このアルバムは音楽業界になかなかの影響があるんじゃないかと思う、とも書きました。

 

これは、いくつかの意味で、そう思っているわけですけれども、思うに彼らの願いみたいなものもあるんじゃないかと思っています。

 

現代の音楽は、いわゆる「ドパガキ的」と言われていまして、その特徴を持つ音楽が商業音楽としては成果を挙げていると思います。

「POPS」というアルバムは、そこにドカッと腰を据えているアルバムでもあります。

 

メロディは複雑に変遷し、複雑なコードの展開から変拍子や変調の多用、高音を張り上げるボーカル、人が弾くには複雑な楽器やフレーズなど、とにかく複雑なものを詰め込んで、それを分かりやすく配置しています。

 

良い悪いは別にして、このアルバムに収録されている歌は、時代を超えないだろうと思ったりします。

瞬間風速的に良く出来ており、良い歌であると同時に、「時代を超える名曲」が1曲もない、という感じです。

 

想像ですが、大森さんの頭の中は、

「こんなものがPOPSなのか?君たちが求めているものならいくらでも作れる。ほらどうぞ。ほかのミュージシャンも商業音楽として売れるためにこんなものを大量に作っているが、そんなものはいくらでも作ってやろう。簡単だ。そして、それが現代のPOPSと呼ばれるものだ。素晴らしいと思う。面白い。だからその全てを詰め込んだ。と同時に、こんなものがPOPSなのか?こんなものが本当に聞きたいのか?勘弁してくれ!こんな下らないPOPSは、もうこのアルバムで全部出し尽くしてやる、もうこれ以上ない程に現代のPOPSの表現を全部やってやる!もう出来ることはないくらいに詰め込んだぞ。ほら、もういいだろ。だから、これで終わりだよ!いつまでこんなPOPSをやるつもりだ?終わらせようよ、こんなPOPSを!次に進まないか?もっと音楽をやろうよ!」

という感じなのかなと思ったりします。

 

音楽業界にリスペクトすると同時に、冷たい視線を向けているように感じる、という事です。

 

ミュージシャンであれば、このようなメッセージを、おそらく感じます。

「お前ら、日本で一番売れているミュージシャンのくせに、この程度か。こんなものよりも良いものを俺たちが作ってやろうじゃないか」という感じで、周りのミュージシャンが刺激を受けそうな気がします。そういうアルバムです。

ミュージシャンのプライドにかけて、他のミュージシャンたちは「それを上回るドパガキ」か「アンチドパガキ」を作り始める。

想像ですけど。

 

じゃあミセス本人らはどうするか。

 

メロディが複雑なら良いのか?

変拍子の何が楽しい?

複雑なコードを多用するだけで天才?そんなもののどこが良いんだ?

声が高くて凄い?だからどうなんだ。

 

これに対するアンチテーゼは、

シンプルなコード進行とシンプルなメロディ、そして中低音を活かした落ち着いた歌ではなかろうかと思われます。

 

自分たちで終わらせようとしている、「時代を超える名曲」が存在しない「POPS」の先にあるのは、おそらく「時代を超える名曲」ではないかと思うわけです。

 

つまり、Mrs.GREEN APPLEの次の曲は、時代を超える名曲を期待させるんですよね。

そして、ほかのミュージシャンも、もしかして、このアルバムの影響で、そんな曲を作り始めるのではなかろうかと。

 

そういう意味で、この名曲なき「POPS」というアルバムは、時代を超えないだろうし、同時に、時代の転換になるのではないかと思うわけです。

日本一売れてるミュージシャンがそれをやったからこそ、転換になりそうというか。

 

大森さんという人物は、稀代のメロディメーカーだと思いますので、そんな「時代を超える名曲」を期待させてくれる人でもありまして。

 

ビートルズのYesterdayやLet it beのような。

中島みゆきの「時代」のような。

坂本九の「上を向いて歩こう」のような。

複雑なコードもなく、変調や変拍子もなく、張り上げるような高音のメロディでもない。

時代を超える名曲は、総じてシンプルで、言うなれば現代の商業音楽におけるドパガキ的要素は皆無だったりします。

 

Mrs.GREEN APPLEの今後、ということですが。

次に出してくるMrs.GREEN APPLEの音楽は、そんなシンプルで装飾のない音楽なのではないかと思ったりしています。

しかしそこに、「POPS」に詰め込んだドパガキ要素が巧妙に仕込まれたものではないかと。

「POPS」が、リスナーの耳を調教したことで得られる、従来型ではない、より自由な名曲。

刹那的な「POPS」ではなく、時代を超える音楽。

 

なんとなく、そんな気がしたりするよ、なんて個人的な感想でした。

Mrs. Green Apple 「Pops」 こりゃ濃い原液です

聞かれましたか、買われましたか。

Mrs. Green Appleのニューアルバム。

 

こちとら、Mrs.Green Appleのファンではございません。

全くもって。

「おぉ、なんか流行ってるよね」

「ライラックの人でしょ。他の歌も聞いたことはあるよ。夏が始まった合図がしてるやつとか」

というわたくしでございまして。

そんなわたくしですけども、まぁ流行りに乗って彼等のニューアルバムを聴いてみたわけですけども。

えー。

食らいました。クソほどに食らいました。

 

一言で表現するなら、このアルバムは「原液」という感じです。

「打ちのめされてしまった」みたいな感じでした。

いやもう、こういうのは語らない方が良いのかもしれませんが、というか、がっつり原液に打ちのめされてしまいまして、うまく語れませんが。

感動したとか、なんかそんなんじゃなかったんですよね。

感動しないということではありません。

これでもかも感情を掻き立てられたんですが、「感動しました!」という表現は適切ではなくて。

打ちのめされてしまった。

アルバムの出来が良いんだと思います。

1つ1つの曲はそれで素晴らしいんですけども、このアルバムは「通して聞く」と、言語化できない何かに打ちのめされる感じがします。

ちなみに、次の曲がとても聞きたくなる構成になってるので、意図せず次が聞きたくなりました。

 

なんとなく街中で流れてくる音楽を聞き、楽しそうに演奏しているメンバーの映像から、耳馴染みも良くて楽しいバンドなのかなというイメージが強かったんですけどね。

そんなんじゃないですね、なんか。

バンドとしては、一見ポップにパッケージされていますが、ブッ刺してくるパンクに近い音楽というか。

なんかもう凄くて、ですね。

いやもう、どの曲が、とかじゃないんですよ。

この歌詞がとか、このフレーズがとか、そんなんじゃないんですよ。

そんな細々したことを言ってるのではなく。

なんかね、凄かったです。

しかも、捨て曲ないんかい!という感じでして。

「まぁアルバムだもんね、そーいう歌もあるよね」みたいなのがなく。

ひたすら勝負かけまくってる歌で構成されていて、詰まりまくってる。

 

僕好みの音楽なのかと言われたら、そうではありません。

僕の好みはツェッペリンやらゼブラヘッドやらニルヴァーナやら、日本ならBUMP OF CHICKENとかLUNA SEAとかエルレガーデンみたいなロックなので、少しジャンルが違う。

ですけどもね、なんかね、エグかっこ良いですよ、Mrs.Green Apple。

 

歌詞も個性的で、オモロかったです、ほんと。

ボーカルの方の「うまく言語化できない葛藤」が、「うまく言語化できないまま」歌詞になってる感じでしょうか。

色んな葛藤が、解決もできず、諦めることもできず、現状を受け入れることも出来ず、答えを導くこともできず、着地点を見つけることも出来ず、未消化のままで、加工されないまんま、原液が生々しく晒されてる感じでしょうか。

そういう意味では、歌詞は、寄り添ってもくれないし、助けてもくれない、背中を押してもくれない。基本的に、聞き手に何もしてくれません。

この無加工の原液は、互いに矛盾し、対立すると同時に、混ざり合い、共存しています。

アルバムを通して。

その原液の濃さゆえの生々しい感じが、ブッ刺してくる感じでした。

 

キーボードとギターがその原液を包み込むように、同時にその原液と反発するように煌びやかで重たく、ポップでアイロニーでして。

何このバンド、みたいな何やら不吉で、思い切り軽やかで、この演奏もまた原液のようなのでして。

演奏もまた原液なんですけども、これは矛盾するような表現になりますが、異常に作り込みまくっていまして、ギチギチと突き詰められた音が鳴っています。

作り込みまくってるのに荒々しい原液なんですよ。ギチギチに突き詰められた作り込みから原液が染み出してくるというか。

アルバム通して聴くと、えぐい体験が待っていた、という感じでした。

 

音楽評論家がどう受け取るのかは知りませんが。

僕自身が作詞作曲を趣味にしていて、色々と今でも作ったりしますが。

このアルバムは、結構あれじゃないですか、音楽界に影響がありそうな気がしたりします。色んな意味で。

良いアルバムです。ほんと。

 

みなさま聴きましたでしょうか?

ファンじゃなくても楽しめるアルバムじゃないかなーなんて思ったりします、ほんと。

大多数の「中道」なみなさまへ

大多数の「中道」なみなさま。

おはこんばんちわ。

ここで言う「中道」とは、「中道改革連合の支持者」のことではなく、「極端な右翼や左翼ではない」っていう意味で、割と広く捉えた表現として見ていただきたいのすが。

みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 

SNS界隈や、テレビメディアには、なんだかんだと「極端な人々」が集まりまして、「極端な意見」を延々と述べてる景色を眺めることの多い日々でございます。

「両論併記せよ!」と言って、「前後上下左右の極論」をズラズラ並べ立てられる世の中を見て、「それ両論併記じゃなくて極論併記じゃん。その両論として書かれてる中に私の意見ないんですけどー!」ってなっているのではないかと思います。

「中道が正しい」って言ってるんじゃないですよ。

中道なんてのは数多ある考えの1つでしかなく、別に正しくも間違ってもないです。多分。

単純に、「中道の意見はリングにも上げてもらえない」という感じですかね。

「中途半端!無責任!」みたいに言われたりしまして。

えぇ、そうですとも!無責任ですとも!すみません!

 

まぁともあれ。

極論を叫ぶ方々は、メディアでもSNSでも政界でも、ことあるごとに取り上げられる一方で、われわれ「中道」の意見はなかなか取り上げてもらえない感じもしますよね。

「保守VSリベラル」みたいな番組って、極右と極左の論客が出てくる感じですし。

いや、良いんですよ、極右は極右で大事にしてることがあるんでしょうし、極左は極左でご自身の思想を大切にしていただいて良いんですけどもね。

その意見を持つことが良いとか悪いとか言いたいわけではなくて、「放置されてる中道」という構図が、なんか哀愁漂う感じがしますよね。置き去り感と言いますか。

極論は少数派というのが基本だと思われます。

「中道」も色々なので「中道が多数派」ってのも雑なまとめ方ですけど、少なくとも「極論じゃない人」が大多数だとした時に、大多数の置き去り感が否めないなと。

まぁ「極右」や「極左」など、「少数派の意見を取り上げていく姿勢」はそれはそれで良いですよ。少数派の意見に耳を傾けるのは大切だと思いますし。

中道の意見なんて面白くないですから「視聴率目当て」「アクセス稼ぎ」にならないので、メディアやSNS向けじゃなさそうですし。

極論はエンタメになりますので、ドラマもアニメも人気作品はだいたい極論物語ですからね。

エンタメとして消費してる分には良いんですけどもね。

だけども、「どちらの意見にも乗らない」ことが「何の意見もない」みたいに見られて「中道=無色透明」にされてるんじゃないかという気もしてくるじゃないですか。

「意見がないなら、どっちにつくか決めな!極右の味方か?極左の味方か?」みたいになるのも変な話ですからね。

無色透明じゃないから!意見あるから!君らほど端的にうまく表現出来ないだけだから!ね!

みたいなね。

極端な意見以外には価値がねぇ!とまでは言ってないのだと思いますが、なんかもうメディアやSNSにおける中道の存在感の薄さたるや。

ゆえに、世にあふれる極論な番組は、まぁ時に疲れてくると言うか「またこれか、〇〇のパクリの物語やないか!もうえぇわ!やめさしてもらうわ!」と漫才の終わりのごとく言いたくなってしまったりもしますよね。

極論じゃない平和なやつよろしく、と。

社会を支えているのは、そんな極論じゃなくてその間にあるモヤモヤした中道のみなさまなわけですが、なかなか光を当ててもらえていません。

 

少し例をあげますと。

「鬼が悪事を働かなければ桃太郎も何もしなかった!桃太郎は正義なのである!」「単純に桃太郎は正義と言い切っていいのか!?」みたいな感じの極論が飛び交うわけですが。

エンタメでやってる分には良いんですけど、リアルにやられると、「なに言ってるの?」的な感じになっちゃうわけでして。

「悪の帝国、鬼軍団が攻めてきたらどうするんだ!?」「だからと言って、桃太郎は常に正義なのか!?」とか言われましても。。。

「いや、しらんがな!とりあえず村の治安維持と交易ルートの確保はどうする?明日のご飯とか。」みたいなね、なんかそんな感じの中道だと思うんですけど。この方々が、実際に社会を支えてる感じがします。

だけど、そんなこと言うと「鬼が悪の帝国ではないと言いたいのか?鬼の味方、スパイか!?」とか「桃太郎は常に正義だと思ってるのか!?桃太郎に金でも貰ったのか?桃太郎の悪事は追及する気がないのか!」とか言われたりしそうでして、なんかあるあるです。

そんなに熱っぽく語らなくても、桃太郎の悪事は追及すりゃいいし、鬼の悪行には対抗すりゃ良いじゃん、それだけの話じゃないの?という感じではないでしょうかね。

極論が正しいとも間違ってるとも思ってないですし、自分が正しいとも思ってないですし、押し付ける気もないですし、押し付けられたくもないですし。

「確かになー、極右がそう思うのは分かるよー、人間だものね。」「なるほどねー、極左がそう思うのも理解できるよー、人間だもの。」「みんな色々だねー、僕も色々なんです。」みたいなのが、なんかSNSやテレビにおける番組の土俵に上げてもらえてない。

「あなた方の味方でも敵でもないっすよホント、マジっす、極右と極左どっちも良いっすね!極前も極後も極上も極下も良いっすね!僕とは違うけど、いや、良いっすよそれぞれ!怖いから、勝手に味方認定とか敵認定しないで!」なんて思ってるのではないでしょうか。

スタンスが違うので、「何を熱く語っておるのか」と思ってるわけじゃないですか、大多数の中道なみなさまとしては多分。多分ですよ。皆様のことは知らんけど、多分。

別に冷めてるんじゃなくて、諦めてるんでもなくて、スタンスが違うだけだと思うんですが。

そうですよね?中道のみなさま?ね!!(←圧がめんどくさい)

 

さて、メディアがテレビからSNSに舞台が変わっても、この構図はあまり変わらない感じですが、しかしSNSは個人に来ますので、そんな「面倒」がすぐ隣にあります。

 

社会から無視されてるわけではないんですが、議論のリングに上がらない点に関して、なんとかならんかなと、思いませんか大多数の「中道」なみなさま。

いや、まぁ触れないのが一番なのは分かった上ですが、とは言え勝手に流れてくるし、なんか存在感薄く扱われるのもまぁそれはそれでどうなのと思うじゃないですか。

大多数なのに、存在しないかのごとく、土俵に上げてもらえないというか。

「俺たち、ここで元気に生きてるぜ!」と言わなくても良いですけども、結構な数でいるわけですからね、グラデーションをうまく拾ってくれてもえぇんちゃうかと。

知ってるからこそ極論な人は熱く語るんでしょうかね。「我々の味方にしなければ!」と。

うん、別に敵じゃないです。味方なのかは知らんけど。

 

いやー、激しい意見の方々は意見を取り上げてもらえて羨ましいですなー、という中道の妬みということで。。

 

SNSでは、中道な人が極論を目にして「まぁまぁ、とりあえず落ち着こうぜ」みたいに言ってる人もたくさんいるんですけどねー。

なんかバズらないっすよねそういう意見。

でもまぁ、そういう意見がバズらずとも多数を占めてるっぽいので、世の中そんなに偏らずにいるのかも知れませんね。

議論の前提 既成事実という土俵

現在も、いろいろな場所で、いろんな方が色々議論されるのを目にしますが。

「既成事実が議論に与える影響」を考えてみたいなと。

 

さて。

憲法改正については、色々と議論がされる日本です。

他の国ではなかなか見られない、日本特有の議論だろうなと思います。

 

今現在行われている議論の前提には、「軍隊を解体した」という事実と「戦力を放棄した」という憲法と「自衛隊を保有してる」というのがあるかなと。

 

で。

もしですよ。

もし今、日本が自衛隊すら保有してなかったとしましょうよ。

軍隊はおろか、それに準ずる組織もないと。

その場合に、憲法9条についてどんな議論になるかを想像すると、なかなか面白い想像になるなぁと思います。

憲法改正したとて、戦後81年に渡って組織がないので、まず部隊編成から始まるわけですよ。

現実には20万人を超える自衛官がいる今の日本ですけれども、それが無いですから。

自衛隊ができた時は、「旧日本軍軍人」が日本中にいましたので、組織再編は比較すれば容易だったでしょう。

しかし、81年間ないんですよ。

ほぼ国家規模の巨大な新規事業の立ち上げになります。

自衛隊法もありません。

予算も全く編成したことがありません。

指揮官になれそうな人もいませんし、指揮官の経験者もいません。

将来の夢が自衛官!なんて子供達もいませんし、防衛大学のような学校もないでしょうか。

ミサイルやドローンはおろか、戦闘機や護衛艦も銃も1本も持っていません。

「どうやって日本軍をまた作る気?」という議論なしに、憲法改正の話は出来ないわけです。

アメリカ軍の指揮官に、自衛官の訓練方法とか手伝ってもらいます?ど素人の日本人だらけで。

「え、俺?俺が軍人として徴収されるの?」みたいな可能性が、かなり現実的に想像される世界でもあります。

相当にハードルが高い気がしませんか。

かなり非現実的な気がします。

 

現代日本において、これだけ活発に憲法改正の議論がなされるのは、「自衛官が既にいるから」という背景がかなり大きいですよね。

 

「自衛隊、あって良かった!」と言うのが改憲派でしょうかね。

なかったら、ホントこんなに活発な議論にはなっていなかったでしょうからね。

 

前提が変わると議論も変わるということで。

仮に改憲すれば、また前提が変わりますね。

日本人は9条抜きでの軍隊の文民統制をやった経験が81年間失われていますので、日本人全員が未経験です。

総理大臣も、外務官僚も、防衛大臣も、誰もやったことがないし、聞ける先輩官僚や先輩政治家も一人もいません。

ノウハウないので、「こんな場合は9条のこの条文を基に外国に説明を」という前例が使えない外交をやるわけですので、また議論の内容も変わるのでしょうかね。

 

 

余談ですが、「力を持つと、それを行使する心理的なハードルが少しずつ下がる」事例とも言えるかと思います。

これが更に少しずつ拡大して、「力使ってみたい」「力を使ってやろう」みたいな欲望にまで膨れ上がると、イケイケドンドンな大日本帝国の頃の日本国民になるわけですけれども。

「やったれ、弱腰政府は許さん!」みたいな感じですかね。

まぁ、そうならないように文民統制をしてるのが現代の多くの国でして、無駄に「このままでは日本が戦争に!」と不安を煽り立てられても困りますけれども。

ほんの一部の国を除いて、現代の多くの国は基本的に抑制的に運用していて、戦争を仕掛けたり仕掛けられたりする事態にまで至っていませんのでね。

きちんとそのへんの運用については議論して、国民もある程度抑制的な思考をしながら、ちゃんと軍事力を統制できるようにするのも大事なんでしょうけれども。

 

もとい。

 

この「既成事実の存在」が「議論」に与える影響は、何も改憲だけではありません。

 

例えば、最近だと「税制」の議論もそうでしょうか。「既得権益」と呼ばれるものも、存在が当たり前すぎて、その当たり前を基にして議論が進むことは多いかなと思います。

消費税の例で言えば、輸出企業はそこから還付金を受け取っており、輸出企業にとって「他国とのグローバル貿易競争を戦う」上で、重要な収入源(控除)になっていると思われます。他国の消費税(付加価値税)の税率の方がよほど高く、他国の輸出企業はより多くの還付金(控除)を受けていますので(これは別にブログにしましたので、気になる方はそちらをお読みください)、なかなか触れない。

また、政府にとっても社会保障制度などを担保するための重要な安定財源になっていて、その収入を見込んで既に国家経営をしています。巨大な収入源に既になっているので、安易に触れるものではありません。

もうここは前提ですので、議論の俎上に上がらないわけです。

消費税で議題に上がるのは、「社会保障をどうするか」みたいな「その収入をどこに支出するのか」という、いわゆる「積極財政の支出先選定」が中心になるかと思います。

一度作って動き出している制度は、それが前提にある議論に終始しやすい。

良くも悪くも。

前提が共有されるが故に、議論は整理され、しっちゃかめっちゃかな「お話し会」みたいにならず、きちんと結論を導き出せるし、活発な有益な議論になります。

一方で、「そもそも、この制度自体はどうなんだ?」という原点の議論が相対的に疎かになる可能性が常にある。

「もうあるんだから、しかもそれで多くが動いてしまってるし、なくすわけにもいかないじゃん」もあるでしょうか。

「もう20万人も自衛官がいるのに、自衛隊をなくしてしまうと、失業者が溢れてしまう」みたいな、必要性とは別の議論が出たりだとかもしますし。

原点の議論が相対的に失われる。

基本的に、議論というのは「前提を共有した上で」されるものです。

なので、「その共有されている前提は、おかしくないの?」という疑問を挟む余地が小さくなります。

その議論をしてないので「いや、今はその話をする時間じゃないよね」「論点をずらして邪魔しないでね」「議論ひっくり返したいだけじゃないのか?今はそれを前提に議論してるんだから。」という正論みたいなものに、そういう疑問は抑えられやすい側面もあるのかもしれません。

 

最近は「消費税減税!」とか「既得権益を見直せ!」といった議論も、確かにあるのですけれども、そのへんは割と「民間の中では」という感じでして、国の中心で話される議論の中心はやはりそこではなく「積極財政」つまり「支出先」の話が中心になっています。

 

ダメって話ではないんですけどね。

議論というものに与える「既成事実」の影響ってのは、議論を見ていると、とても感じるなと思うのと同時に、その議論が一体どのような「既成事実」を基に成り立っているのかを探してみたり、その「既成事実」が本当に今でも成立するのかどうか(昔は合ってて、今は時代背景が変わって既成事実そのものの価値が変わっていることもありますので)を考えてみるのもまた、大切な視点かもしれませんね。

「国防」における「抑止力」と「外交」、役に立つ時、立たない時

「国防」と言えば、軍事力による抑止と外交がよく言われます。

 

「軍拡」と言うと、個人的にはあんまりよろしくないイメージがありますが、まぁ世界はどの国も大なり小なり軍拡しています。

いわく「抑止力」なのですが。

 

この「軍拡」については、大きく2つ、相反する要素あると思います。

ひとつは「戦争を抑止する」もの。

ひとつは「戦争を呼び込む」もの。

 

前者「戦争抑止」が「不足」することで戦争になった事例として、ロシアのウクライナ侵攻が示されることが今は多いです。

ウクライナは核兵器を手放し、ロシアへの抑止力を失ってしまった、と説明されます。

と同時に、ウクライナのNATO加盟問題が「ウクライナ側の軍拡の意思」と捉えると、「戦争を呼び込む」ことで戦争になった事例と捉えることもできます。

 

イランへのアメリカイスラエルの侵攻も、「イランの軍拡(核武装疑惑)」がこの戦争を呼び込んだようにも見えますし、アメリカとイランの軍事力差による「イランの抑止力不足」により起こったようにも見えます。

「軍事力に劣る側」が「軍拡しようとする」と攻撃されてしまう事例、みたいな見方をすると、「軍事力に劣る国は、軍拡すると戦争を仕掛けられる可能性が高まる」になるでしょうか。

「相手が完全に強固な抑止力を完成させる前(まだ勝てるうち)に叩く」というか。

アメリカやロシアは、それを「自衛」と称して攻め込んだわけですが。

それは「事前にもっとしっかり軍事力を上げておけば、攻撃されなかった可能性がある」とも見えます。

十分な抑止力が完成するまでの移行期間が最も危険とも言えるかも知れませんが。

 

つまり、軍事力の状態は「戦争を抑止する行為」でもあり、同時に「戦争を呼び込む行為」でもある、という感じでしょうか。

 

「自衛戦争すらダメ」と考えてる人たちも、「自衛戦争だけはやむを得ず認めざるを得ない」と考える人たちでも、「侵略戦争はもってのほか、自衛戦争すら起こって欲しくない」と思ってる点はおそらく共通です。

だからこその「抑止力が欲しい」と考える人もいるし、だからこそ「呼び込むのをやめて欲しい」と考える人もいるってことなのかなと思いますが、いずれにせよ役に立つ時もあるし、役に立たないどころかマイナスな時もある、ということで、万能ではありません。

 

能天気に「軍事力強化すりゃ良いんだよ」みたいに、軍拡の「戦争を呼び込む」リスクを軽視しているような考えも、

「軍拡やめりゃ良いのよ」と軍拡の「戦争を抑止する」力を軽視しているような考えも、

それはそれで良いのですけども、抑止力がいくらあろうと無視して戦争(日米戦争のような)もありますので、軍拡やめてもやめなくても場合によっては戦争も起こってる歴史を振り返れば、抑止力として常に万能というわけでも役立たずというわけでもありませんが、役に立たない時があるがゆえに、違う方法も同時に考えたいということになる。

 

じゃあ、外交!ということになりますが。

他国との関係性は、良いも悪いもありますが、ゼロヒャクではありません。

「軍事行動を起こすほどの関係悪化」に至らなければ、関係が悪いことそのものが脅威になるわけではないでしょう。

「良好な関係であるにこしたことはないが、良い関係を持つ必要まではない。悪化しないにこしたことはないが、絶対に悪化を避けなければならないわけでもない」くらいの、微妙なグラデーションの中で外交がある感じはします。

 

日本で言えば、中国やロシアがよく名前が上がる「微妙な関係の国」だと思いますが、「そんな事したら日中関係や日露関係が悪化するぞ」という行為でも、国益のためと戦争に至るほどでもない悪化であれば許容範囲なのでしょうし、「そこは中国やロシアにとってのレッドラインを超えるぞ」みたいなのは避けたい。

どこにレッドラインがあるのかは明確ではないですから、人と人が直接膝を突き合わせて、お互いに様子を見ながら、顔色を見、声のトーンを聞き、探り合いながら、踏み込んでみたり、一歩引いたりを何度もやっていくのが、まぁ順当なやり方でしょうが、レッドラインは明確でないが故に誤って踏み外してしまう可能性は常にあります。

かと言って「悪化させちゃダメだ!」と、ヘーコラするだけでは国益を損うかもしれません。

戦争じゃないのに国益を損う、というのは「戦争を経ない侵略をされてる」みたいなものでしょうから、「国防」と考えると、時に関係が悪くなろうとも強く出る場面は必要です。

とは言え、強く出るにしても、うまく立ち回れば、戦争を回避することはできるかも知れませんから、政治家の手腕にかかっていますが、外交が役に立ってくれることはもちろんある。

 

だけど、外交がほとんど役に立たないものもあります。

例えば、サラミ・スライス戦術みたいなものへの対応に、外交はなかなか役立たずです。

全く役に立たないとは言いませんが、交渉には時間がかかります。

しかし、交渉してる間にも、勝手にサラミ・スライス戦術は進んでいってしまう。

サラミ・スライス戦の例としては、中国の南シナ海での行動なんかがあると思いますが、

①漁船や海警局の船を係争海域に恒常的に展開

②浅瘦礁(スカボロー礁など)に一時的な建造物を作る

③埋め立てで人工島化

④滑走路や軍事施設を段階的に建設

まぁ、どの一手も単独では「開戦事由」になるほど大きくなく、気づけば実効支配が完成している、なかなか厄介な感じですが。

外交してる間に進んでいくので、対応が難しい事例かもしれませんが、放置する訳にもいかない。

中国はまぁしたたかというか、孫子の兵法「戦わずして勝つ」の中国らしいやり方なのかもしれませんが、戦争じゃないのに侵略が進む、という外交のリアルにどう対応して守れるかは、外交とは違う力が必要な感じはします。

この時に、戦争にならない程度に自国の自衛隊を展開して、みたいな微妙な軍事的圧力は欠かせない手段になったりするかもしれません。

 

少なくとも、「侵略戦争は絶対反対だし自衛戦争すら起こってほしくない」だけど「しっかり国防をしたい」とした時に、軍事力がどこまで役に立って、外交交渉がどこまで役に立ち、それぞれ役に立たないのか。

他国からの侵略とは、どんな風に進むのか。

どの程度まで踏み込み、どこまでで止めるのか。

 

僕はアホ丸出しで「むっずかしーなぁ」と、答えも出さずに、学問的とも言えない趣味程度に学びを楽しんでますが。

いやー、、国政にいる人たちは大変だなと。。