【あなたの生活に新しい視点を】深読み気分を満喫するブログ

人生とはなんぞや?人間とはなんぞやー?人生に新しい視点をお届けします

映画「ジョーカー」 タイトル回収のダブルミーニング

 今更ながらだけども、「ジョーカー」という映画。

めちゃくちゃ面白かったですね。

 

妄想と現実の境界線がないので、僕の解釈では、この映画の内容全てが妄想だったのではないかという感じでした。

最後に書きますが、タイトル回収な映画です。


全てが起こっていないし事実でもない。

何の脈絡もないし、繋がりもない。


ぱっと思いついて「あぁこれも面白い」と思った刹那、また別のことをパッと思いついて「あぁ、これも面白いな、あはははは!!!」、と思ったそばから、「これさっきのと比べると面白いじゃないの!!あははは!」「あれ、脈絡ないけど、まぁいいやそれも面白いや!あははは!」みたいな、ひたすら思いつきを繰り返しては笑い転げている感じで映画は進んでいく。


この混沌とした世界観こそ、まさにジョーカーという感じでもありましたが。

「悲劇のヒーロージョーカーの出来上がりだとさ!!あははは!なにそのジョーク!笑える!あははははは!!そのジョーカー偽物だから!あははは!!」という感じでジョーカーを想像すると面白いよね、まぁ分からんか、オレが面白いだけだから、いいよいいよ別に、あら可哀想とか思っちゃう?病気で笑ってると思っちゃった?あははジョーカーの偽の物語だからこれ!嘘なの!全部嘘!あはは!あー面白かった!というサイコパスな感じで映画が終わるようなイメージですかね。


この映画の面白さは、バラバラに繰り返される思考の映像化であると思う。

人間、生きていますと、どこかで「ヒーローになったらどんな気分だろうか」とか「舞台に立ったら自分ならどうするかな」とか想像しながら、「ま、現実はそんなこと起こらないけどね」とか「何を馬鹿な妄想してるんだ自分は、、、そんなことしてる場合じゃない、明日のテスト勉強しなきゃ」みたいに冷静に考えたり、「可能性はゼロじゃないかもよ!」と鼓舞したり、「嫌なこともたくさんあったな」と振り返ったり、「なんで生きてるんだろう」と考え込んだり。

人間の思考はとても忙しい。

言葉にする以上に、思考は混沌としてる。

そんな頭の中の混沌をありありと描写しているかのようで、妙なリアリティがあるのも面白い。


あくまでも、全てが頭の中の世界だとして。

最後のシーンは、「なぜ笑ってるの?」と聞かれた主人公は「面白いジョークを思いついた、理解できないさ君には」という感じで答えるんですけども、この「面白いジョーク」がこの映画のオープニングから全てを指しているのではなかろうかと思えたりします。


「ジョーカーが悲劇のダークヒーローだなんて下らないジョーク(嘘の物語)を理解出来るはずもないさ、そのジョークそのものが面白いんじゃなくて、それを想像するのが楽しかっただけさ、それを想像してる自分が可笑しかっただけさ」みたいな。

この頭の中の繰り返しが、しかし人を生かしていたりするし、精神的な解放をしたりもする。それによって、妙なカタルシスを感じたそばから現実を目の当たりにしたりして。


ちょっと変な例えですけど、「ワンピース」という漫画を見て、「ルフィがもしこんな事を言ったら」とか「ウソップが悪魔の実を食べていたら」という二次創作を考えてる人の、その思考を映像化してる感じですかね。

例えば、「なんでそんなに何回も何回も海賊王になれないなんて言うんだよぉぉー!そんなに言わなくても良いじゃないかぁぁー!うわぁーーん!」と地団駄踏んでいる子供のルフィが、ゴム人間だからブニブニしながら怒ってる、みたいなよく分からない想像をしたりして、「いやー、さすがにルフィはこんな事言わないか?あははは!誰かに話しても、下らないって言われるんだろうなぁ、まぁ話さないけど!馬鹿らしい想像してしまったなぁ、、個人的に面白いけど、無駄な時間だわ、まぁ面白いけど」という感じ。

しかし、想像を膨らませているうちに、実にそれっぽい本物っぽい物語ができてしまった。真実ではないのに。そんなこともあります。

一部の陰謀論なんかがそうでしょうか。まるでそれが真実であるかのように見えます。が、ただ妄想を膨らませて真実っぽくなっているこの映画さながらなわけでして。

そんなありもしない想像をしていた主人公アーサーが、物語のラストに「これは僕(アーサー)の妄想を膨らませてそれっぽく見えるだけの嘘物語(ジョーク)だよ」と話して終わる。


映画のタイトルは「ジョーカー」です。

ジョーカー、つまり、ジョークを言う人、です。

ジョークとは「冗談」という意味です。

冗談とは「真実ではないこと」つまり「嘘」なわけで、嘘を面白おかしく表現したものが冗談ですから、タイトルは「嘘を面白おかしく表現する人」なわけです。

この映画のジョーカー物語は全て「嘘」なんでしょうなぁと思う。タイトル回収というか。


このタイトルはダブルミーニングだと感じます。

「ジョーカー(バットマンの悪役)についてのジョーク物語を考えるジョーカー(嘘つきのアーサー)の物語」。

 

いずれにせよ。こういう精神世界の描き方があるのか、映画でそれを表現出来るのか、と、感心しきりでして、いや凄い映画だなと。

クリエイターと呼ばれる人たちは、こういう下らない妄想は映画にしないわけですが(物語がブツギリになって脈絡がなさすぎて脚本が書けないですからね)、それを作品に仕立て上げたこの力量がすごいなぁなんて思いました。

映画「PLAN75」分断の果てには??

「選択の自由」は、存在し得るのか?そして、分断の果てには何があるのか?この映画を観て、改めて考えてみるのも良いかもしれません。

 

2022年公開、早川千絵監督の映画です。

 

物語のあらすじは「高齢社会の日本。75歳以上の高齢者が希望すれば自ら死を選ぶ事ができる制度、PLAN75が制定される。高齢という理由で仕事を解雇され、住む家を失った主人公の選択とは。そして、PLAN75を希望した高齢者を火葬のその時までケアする人々を描く」という感じでしょうか。

この制度は、75歳以上なら誰でも何の制限もなく申し込み可能です。申し込まないことも可能だし、申し込んだとしてもいつでも辞退する事が可能です。

「生まれる時は選べないけど、死ぬ時くらい選びたいですよね。これが自分の生き方です、迷いはありませんでした。」笑顔で高齢者が語るCMがテレビから流れています。

皆様なら、どうしますでしょうか?

 

いわゆる「選択の自由」が、75歳以上の高齢者に与えられているようなのですが、「選択の自由」という表現によって「束縛」もたらしているように見えます。

「死ぬか生きるか、75歳になったら決めなければならない」という束縛です。

「選択の自由」という言葉によって、自由を奪われた高齢者が、この映画の中には生きていました。

 

言葉というのは不思議なもので、「尊厳死」「安楽死」なんていう言葉は、何やら悪くない響きを伴います。しかし、「尊厳ある死」なんて実はありませんし、「安楽な死」もありません。

存在しないものを概念として作り上げる、言葉にはそんな働きもあります。

「選択の自由」も、存在しないものを概念として作り上げている言葉かもしれません。

「選択」するわけですから、何らかの選択肢が提示されます。選択が強制され、選択肢に束縛されますから、その時点で既に自由ではない感じもします。

「自由という名を騙る束縛」という表現をすると、ちょっと攻撃的過ぎるかもしれませんが、束縛を仕掛けたい側が相手を懐柔する手段としてはよく見かけます。

 

選択の自由が悪だと言ってるのではありません。人は、ありもしないモノを概念として作り出す事がとても上手で、ゆえに人類は発展したとも言われています。あくまで、それを使う人の問題です。使い方によっては、誰かの自由を奪い、PLAN75のような制度が出来上がる。

「生きるか死ぬか決めてください」だって?そんなこと決めなくて良いよ。それが自由である、なんて僕は思ったりもしましたが。

映画の中では、制度に疑問を持つ者や、制度を批判する者も一応います。

ただし、その制度を止めることは誰にも出来ないところまで進んでしまっていた感じでしょうか。

 

なぜそんなところまで進んでしまうのか?それが、「分断の果て」なのではないか?と思ったりします。

 

映画の中におけるPLAN75という制度は、「高齢者が多い事が問題である」という社会の意識から作られたのであろうと推察されるわけですが、こういう「問題点の履き違え」による意識で分断し、制度を作ってしまうと、何も解決しないのだろうなぁなんて思います。

問題の本質は、本当に「高齢者が多いこと」や「若者が少ないこと」なのでしょうか?

少子高齢化問題」という言葉を作り出した誰かがいるわけですけれども。これもやはり、存在しないものを概念として作り出して、問題にしてしまったのではないかと思ったりします。

「いやいや!事実だし!高齢者多いし!子供少ないし!」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが。

事実を元に作り出した概念だということです。

概念を見るのと、事実を見るのは、根本的に違うと思うんですよね。

事実の方が大切だという話ではないです。概念が無駄だという話でもありません。

事実であろうと概念であろうと、振り回されたら判断を間違えるかも知れないという感じでしょうか。今回は概念の話をしているだけです。

少子化国難です」みたいな振り回されっぷりは、ちょっとなぁと思ったりします。「国難」って、、ねぇ?

少し距離を置いて、眺めてみるのも大切だよなと思います。

問題の本質は「少子高齢化」ではないと僕は思います。

問題の多くは、単にお金の問題でしかないわけで、現在の経済システムの末路と言っても良いかもしれないな、と思っています。

本来奪い合ってもいない高齢者と若者でお金を奪い合っているかのように思ってしまった。

しかし、お金は、奪い合いではなく、一方通行です。

資本主義だろうと共産主義だろうと。

現在の経済システムは、資本のあるところに自動的に資本が集まる仕組みです。「仕組み」なので、それ以外の動きはしません。

資本主義社会では資本家に、共産主義社会では国家に、勝手に資本が集まります。一方通行です。

一方通行ですから、お金はその他大勢から資本家あるいは国家に移動し、そこが肥大化していきます。トリクルダウン?起こらないのだろうなと思います。

共産主義社会は、国家という資本家が肥大化して国民が貧しくなります。肥大化した国家という資本家を国民が倒す事でなくなってしまった国があります。

資本主義社会は、資本家が肥大化して国民が貧しくなる。資本主義社会は、いつか資本家を国民が倒す事で壊れる国もあるのかもしれないけれど、ひとまずその経済の仕組みは動き続けているわけです。

資本家をやっつけよう!という話をしたいのではないです。その分断も違う。経済システムの問題なのであって、資本家の問題ではないからです。

分断の成れの果ては、どう足掻いたって対立です。対立してたって問題は見えないわけで。

問題の本質が見えなくなるくらいに振り回されてしまうと、本来存在しない分断を「ある」と錯覚して、対立が止められなくなるのかもしれません。

映画の中でPLAN75を利用した高齢者は、CMで笑顔で語った高齢者のように生き方や死に方を選んだのではなく、尊厳のある死に方を選んだわけでもありませんでした。

仕事を失い、お金に困り、生活に困り、そして孤独ゆえに「もう生きられない」と思った人たちでした。社会から拒絶され、生きるのを諦めさせられた人でした。

PLAN75の選択とは、自殺することです。

「自殺の最大の理由は経済的困窮と社会からの孤立である」ということが描かれています。

そういう人を、実は高齢者に限らず、見放してしまう社会になっているのだと思います。上述した通り「少子高齢化が問題の本質ではない」のではないかなと。

「仕事ないの?じゃあ、死ぬしかないね」

「そうね。じゃあ、私は今から死ぬから、元気で生きてね、さよなら」

特攻隊員さながらです。悲惨な社会だなと。

そんな社会で生きる子供たちは、幸せなのかなぁなんて思います。

「働かざる者食うべからず」が正しいとするならば、赤ちゃんや子供は食べられません。

赤ちゃんや子供は働けないから仕方ないよね?と言うならば、働けない大人にも同じ事を同じ気持ちで言ってあげられないだろうかとも思います。

「働けないなら仕方ない」ではなくて「働かなくても食べようよ」と声をかけられる人でありたいなぁなんて思ったりもします。

甘いのかもしれないけれども。。

 

冒頭に書いた、高齢者が笑顔でPLAN75を選んだ事を語るCM。

どう思われますか?

「私は生きる事を選びました。今を生きる人々と少しでも時間を共有したい、それが私の人生です。迷いはありませんでした。」と笑顔で語る高齢者はCMには出てきません。CMとはそういうものなのだと思いますが、思考が一方向に持っていかれる感じがします。

生きたいと願う人をサポートする仕組みを放棄して(主人公は働く事を望みましたが、仕事は見つけてもらえません)、死にたいと願う人をサポートする仕組み(PLAN75)を作った社会なのですが、それでもなおCMは美しい幻想を見せるように作られていて、妙なリアリティがありました。

誰でも明るく生きることができる社会であれば、「選択の自由」は自由に少し近付くのかもしれないなぁなんて思います。

 

みなさまは「選択の自由」とはどうすれば成り立つと思われますでしょうか?

そして、分断の果てには何があると思われますか?なぜ分断は起こるのでしょうか?

映画を見て、ちょっと考えるのも良いかもしれません。

誰かを排除することで何かを得るのではなく、人はきっと、みんなに優しく出来るし、そういう社会はきっと作れると僕は思います。

そこにこそ自由も存在するのではないか、とも。

映画「えんとつ町のプペル」 アトラクション体験映像作品でしょうか

キングコング西野亮廣さんの作品ですね。

思いっきりネタバレ含むので、見たくない方はお引き取りいただきますよう。

この映画の印象を結論から先に書きますと、絵本の世界からそのまま飛び出したような映画で、アトラクション体験映画としてよく出来た作品です。一方で、ストーリーやメッセージ等は安直な感じでしょうか。

 

1つ目の「アトラクション体験映画」の切り口から書きますと。。
「映画館で遊園地気分を味わう」ような印象です。

ディズニーを超える!ということを西野さんは話していますが、色んなアトラクション体験を、遊園地ではなく映画館で出来ると思います。映像体験をとても重視しているというか。映像もめちゃ綺麗ですし、声優さんもよくて、その目的は達成しているんじゃないかなと。そういう楽しみ方をすると、シンプルに楽しめる作りです。

 

一方で、物語やメッセージは個人的にはかなり残念でした。キャラクターやストーリーの設定とか設計の話なんですけども。

 

ストーリーの設計から話しますと。

この物語の登場人物「ゴミ人間プペル」はルビッチの父親の死後の魂が乗り移った存在です。

プペルが生前の夢を叶えるために終始奔走しています。一方でルビッチはプペルが父親とは気づいていませんが、「星はあるかも知れない」と声を上げています。夢を叶えるための具体的な努力や覚悟や行動はありません。まぁ子供ですからそうでしょう。

ざっくり言うとこの物語は「息子(ルビッチ)に星を見せたい!という生前の夢を叶えた父親(プペル)の物語」という感じだと思います。


ルビッチは夢を叶えるわけではなく、ルビッチはただ死後の父親に星を見せてもらった10歳の少年です。

まぁタイトル通り、プペルの物語。ルビッチは脇役なのかも知れませんが。

この構造が、上手く働いていれば良いのですが、あまり上手く機能していない感じなんですよね。

一見するとルビッチが「星を見たい」という夢を叶える物語で、「何も努力しなくても、夢があるんだと叫んでるだけで、誰かが夢まで連れてってくれるよ」みたいになる。プペルの夢実現物語として見ると、死んだ後だし、夢を叶えるのに、間に合ってるのか間に合ってないのか分からない。

ルビッチの夢は星を見ることじゃない、という設定だとすると、プペルの一方的な夢に巻き込まれただけの子供みたいに見えたりもします。

プペル(父親)に強引に振り回されるかわいそうな子供の物語が並行して進んでいる感じ。


なんというか、物語をどう追っても、メッセージがとっ散らかっているような印象になってしまうと言いますか。

 

もうひとつ残念なのが、キャラクター設定です。キャラクターがあれだけ出てくるのに、物語に深みを持たせられないのは、キャラクター設定や使い方が良くないからだと思える。

とにかくキャラクターの性格が分からない。

主人公の1人、脇役かな?ともかく、ルビッチの性格ですら、よく分からない。


脇役も「話し方の癖」みたいなものがあるのですが、性格がわからない。

最悪、一人一人に深みがなくても良いのだけど、だとすれば何人かのキャラクターを使って物語に深みを持たせるものだと思いますが、そうでもない。


もう少し具体的に言うと、例えば、物語の中で示される「夢をバカにする理由」は「もし誰かが叶えてしまったら、諦めた自分がバカみたいだから」という1つの理由しか出てきません。

しかも、安直なことにキャラクターのセリフとしてやっちゃう。

せめて物語の流れや絵を見て、観客が気付くようにしてほしい気がしますが、それを除いても、「他者の夢をバカにする」理由が1個。だけ。

それだけ?そんな単純化してしまうの?と。


1人の人間でも、行動の理由は山のようにあるのが現実ですよね。そういうのが、個人の深みでもあり、世の中の深みでもある。

そういう深みを持たせるためには、1人のキャラクターをもっと深掘りして内省させて描写するのが1つの方法ですが、それはない。

もう一つの方法は、複数のキャラクターを使い分けて、「A君はこう言う理由でバカにする、Bさんはまた別の理由を語る、C君はルビッチが嫌いだから、D君は夢を叶えたが大切な仲間を失って「人生における本当の幸せとは夢を叶えることではなかった」と気づいた、E君は叶えた夢が想像より楽しくなかった、それでもなお不幸も何もかも覚悟して不幸になっていてもそれを受け入れてルビッチは夢を叶える」みたいな感じでその複雑さを表現すると、物語は深くなるわけですが、それもない。

何と言いますか、安直です。

キャラクターと物語が安直で、メッセージも安直。

 

物語の中で、それぞれに物語を“つむぐため”の「人々の人生」が無いといいますか。物語を進めるための進行役はいるんですけどね。


よく、漫画でもアニメでも、クリエイターは「キャラクターが勝手に動き出す」と言います。これはキャラクターに魂が宿ってるからだと思います。

このえんとつ町のプペルは、与えられた物語を進行する役割をこなす魂のこもらない演者さんがたくさんいる感じでした。

キャラクターが実際にそこに住んでいて物語がつむがれていくのではなく、物語をキャラクターが脚本に沿って進行している感じかな。


物語にまた戻りますが、

遊園地に来て、「次はこのアトラクション!次はコレに乗りたい!」的な物語の展開でして、アトラクションの順番は変わっても何も問題がない感じです。

小学生的な日記になるというか。

「今日はプペル君と遊園地に行きました。ジェットコースターとか観覧車とかに乗りました。ジェットコースターではぶつかりそうな気になって怖かったです。最後に星を見るアトラクションに乗りました。星を見るアトラクションに絶対に乗りたかったので、嬉しかったです。」という日記ですね。そういう物語。

物語としてはつながりがなくて、ツギハギだらけの感じです。キャラクターが進行役でしかなく。

脚本がうまくいけば、これがただのアトラクション体験映像作品だけでなく、物語としてつながるのかなぁと思うと、脚本が良くないのかなぁ。


最後に、メッセージについて感じたことを。

プペルの物語のメッセージは、「何を言われても夢を追いかけていこう!夢を追いかけるのは素晴らしい!」ではなく、「夢を追うものの邪魔をするな愚民ども!」という怒りとも悲しみとも絶叫とも言えるメッセージが強い。

少なくとも僕はそういう風に感じました。

「夢を批判する人🟰ダメな人」という安直な方程式の上にしかない感じで、これもまた世の中の複雑性への理解の欠落を見る感じです。

表出しているのは、ルビッチやプペルが夢を追う姿の描写なのですけど。そこはかとない怒りのようなものが作品全体を覆っている。

その怒りを「夢を追うことは素晴らしい」というオブラートに包んでキラキラした描写で覆い隠して作品にしているのであろうけども、隠しきれないドス黒い感情があって、本当はそれが言いたくてこの作品は出来上がっているように思いました。


まとめると、「アトラクション体験映像作品」として作っていて、そういう意味では良くできています。ビジネス臭プンプンしますが、ビジネスモデルとしてもよく練られてる感じ。一方で、物語やキャラクター設定が雑。メッセージが黒い。という感じです。


ともあれ。


もはやメッセージもストーリーも何もかもかなぐり捨てて「アトラクション体験映像作品」という、もうそのためだけと言ってもいいような映画の作り方にしてしまった方がよほど西野さんらしいんじゃないかと思ったりしました。

個人的には、物語やキャラクターの魅力はありませんでしたが、「アトラクション体験映像作品」という観点ではとても面白かったんですよね。

変なメッセージやら思想やらキャラクターが物語を浅くしてしまっているというか。
プペルの心臓がぶっ飛んでいくエンディングでしたから、2作目も考えてるんだろうけども。

これは第一作目ですから、とりあえずアトラクション体験映像作品の第二弾は、もうアトラクション体験全振りでやってもらったら良いのではなかろうかと思いました。

映画「永遠の0」の最後の表情を見て

前回記事の余談のようなものですが。

 

特攻で突っ込む、その 最後の瞬間に主人公の宮部久蔵の表情が、なんとも言えません。

この表情を見るだけでも、この映画を見る価値があると思わせてくれるくらいに。

 

それは、「もしかして自分も同じ状況ならそうなるかもしれない」と感じるからです。

 

簡単に文章にする事が出来ない表情でして、一言で表現することも出来ない人間の複雑さを、自分の中にも感じたりします。

どんな風にあの瞬間考えるだろうかというのを、少し文章化してみようかと。

 

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映画「永遠の0」 他人を勝手に評価するということ

百田尚樹さんが原作の2013年公開の映画です。

監督は山崎貴さん、主演岡田准一さん。

 

特攻隊をモチーフにしたヒューマンドラマという感じでして、とても面白かったです。

 

生き残ることを望み特攻を否定した続けた宮部久蔵が、特攻に向かうまでの物語を、探る」という物語ですね。

誰かの心理を、他者が語る」というのが肝なんだと思いました。

他者が、「あーでもないこーでもない」と考察し、「きっとこういう理由に違いない」と考察する。

本当のところは、分からぬまま。

ゆえに、見た人たちが、それぞれにそれぞれの答えを導き出すように作られています。

 

戦争をモチーフとして使っている物語ですが、戦争がテーマではないですよね、多分。

テーマは最終的に「生きるとは?」という感じ?に思いました。

 

「誰かに答えをもらったり、誰かの受け売りなどではなく、自ら考えて自分なりの答えを見つけるしかない、それが正しくても間違っていたとしても

と言う人生訓?のようなものがある気もします。

 

宮部久蔵は、実は本当にただのビビりなだけだったのに、周りが誤解して「いや宮部久蔵は素晴らしい!」と言ってるかもしれません。

本当に、誰かの幸せを願ったのかもしれません。

ただただ生きるのを諦めたのかもしれません。

生きることに疲れたのかもしれません。

あるいはその全てが絡んでいるのかもしれません。

 

具体的な話をすると、宮部久蔵という人物は、特攻を否定しただけではなく、それ以外の空戦にも参加しません。

他の戦闘機乗りが空戦をしている中、ひとり安全な上空にいて、ただただ他の人の戦いを眺めています。

 

特攻でももちろん多くの命が失われるわけですが、特攻以外の空戦でも多くの飛行隊員が命を落としています。

宮部久蔵がどちらにも参戦しなかった代わりに?周りが死んでいくのは、特攻も空戦も同じです。

空戦に参加せず、上空を飛び回って、部下がボコボコと撃墜されていく様を上空から眺める。自分の腕を駆使して守ってやるわけでもない。

しかし宮部久蔵は心を痛める様子はありません。

 

ところが、特攻が始まり、特攻に参加せず、上空を飛び回って、部下がボコボコと突っ込んでいく様を上空から眺める。

突然心を痛め始め、精神を病んだ描写がされる宮部久蔵。

本当に宮部久蔵が部下思いの上官だったのかは、疑問が残ると思いますが、部下を思わなかったわけでもないかもしれません。

このフラフラした立ち位置が、しかし人間らしいとも言えるかもしれません。

 

いずれにせよ、宮部久蔵が特攻を決めた理由がどんな理由だったとしても、あなたがそうだと思えばそうなる。もしそれが宮部久蔵の本心とは違ったとしても、それが生きる人々それぞれにとって、正しさになる。

宮部久蔵を取り巻く人々は、宮部久蔵の本心など知らぬ存ぜぬで、やれ「臆病者だ」「恥さらしだ」と貶めることで生きていたり、逆に「強い人だ」「家族想いだ」と褒め称えて生きている。

その誰もが、宮部久蔵の本心など知らない。

それぞれが勝手にそう考察し、思い込んで生きている。

宮部久蔵の妻も例外ではなく。

その他、「興味もない」人たちがたくさんいるわけで。

宮部久蔵の孫も、彼なりの答えを見つけるのでしょう。

 

そして、映画を見た人たちも。

 

勝手に思い込む。

 

それが悪いことだと言いたいのではありません。

生きるとはそう言うことなのかもしれないと思います。

他人の心を、勝手な解釈であれなんであれ、生きる力にしているし、死ぬ理由にもなる。

生きる人々は、生きるしかありません。抗えない様々な運命の渦に巻き込まれている中、本当かどうか分からない何かを、もしかしたら嘘だと分かっている何かを、「きっとこうなのだ」「こういうことにしよう」と自分に言い聞かせることで、生きるしかない。

それは特攻隊と同じですよね。

勝手に決められた運命を自らの生き方とするしかない中で、「国のためだ」と言い聞かせ、「家族のためだ」と言い聞かせ、「これが自ら選んだ生き方だ」と言い聞かせながら、生きて、死んだ。嘘っぱちだとしても「これが真実だ」と言い聞かせて生きるしかないから。

 

僕自身も、自分を省みて「あの人はこういう人だから」と勝手に決めつけて思い込んでいたりします。

そしてそれを、勝手に自分の行動の指標にしていたり、あるいは言い訳に利用していたりするなぁと思います。

良くも悪くも、そうやって人は生きているのかも知れません。生きるとは、そういうことなのかもしれません。

それが時に弊害として現れた時に、今一度「思い込んでいないか?」と考えなおしてみることも、時には大切なのかもしれません。

ちゃんと物語なんですけれども、自己啓発本に近い作りになっていて、へぇーと感心させられました。

 

映画としては、ゼロ戦飛びまくってるのが良かったですよ。あと、岡田くんカッコいいっすな。良い演技です。

 

「宮部久蔵が特攻に向かった理由」あなたの答えは何だったでしょうか?それって、思ったが最後、決めつけてませんか?思い込んでませんか?あなたはそれ、宮部久蔵だけでなく、現実に他の人にもしていませんか?でもそれがあるが故に生きる力が湧いてきたりしますか?

もしかしたら、それを考えることが、生きることなのかもしれないし、教訓と呼ぶのかもしれません。

 

いずれにせよ、宮部久蔵の本心は、永遠に分からない。

死人に口なし、ですね。

生きていたとしても、他人のことは分からないわけですが。

永遠に「1」にはならない。まさに「永遠の0」。

 

なんか、戦争賛美とか色々言われてるらしいですが、モチーフを特攻にしたがゆえでしょうかね?テーマはそんなところにない気がします。

という感想も、僕の決めつけなのかもしれませんね(笑)

映画「エベレスト」人はどう考え動くのだろう

 呆然とする。

現実と創作物の隔たりを突きつけられた映画でした。

同時に、世界最高峰エベレストの壮大な映像を堪能できます。

 

バルタザール・コルマウクル監督による2015年公開のアメリカ・イギリス合作映画ですね。

 

エベレスト登頂に挑む人々。

その実話を元にした映画です。

この実話を、僕は知らなかったので、結末は知らないまま見ました。

だからこそ良かったなと思います。

なので、結末については書きません。

 

自然の厳しさを知る、なんて言葉で済ませるような話ではなかったですね。

人間とはどう動くのかを見る映画でした。

 

よく、「チャンスはそうは来ない、チャンスだと思ったら絶対に掴み取れ」と言います。

確かにその通りで、人生においてチャンスはそうは訪れません。

そして、人生を重ねると、いくつかのチャンスに恵まれながらも、それをことごとく取り逃がした自分がいる。

そんな自分に、いつしか気付いてしまったり、あるいはそう思い込んでしまったりする。

 

「あの時もしも。」と。

子供には、「未来のもしも」が沢山残されているが、歳をとれば「未来のもしも」は減り、「過去のもしも」が増えてくる。

その「未来のもしも」が減ってきたことへの焦りは、もしかすると判断を狂わせる。

 

もう人生も折り返しを過ぎて随分経った。生きている間に、またチャンスは来るのだろうか?

 

「もうこれが最後のチャンスかもしれない。」

そう思った時に、人は危険をどのように評価し、認識し、動くのだろう。

 

子供のような無知ゆえの過小評価ではなく、大人ゆえの何かがあった。

 

だいの大人でも、寒さゆえ、低酸素ゆえ、きちんと判断が出来なかったのではないか?という感じではなかった。そうではない。

だいの大人が思考した結末は、それまでの「あの時もしも」の積み重ねなのかもしれないな、と思わされるものでした。

 

物語の結末は、ハッピーエンドだとか悲劇だとかいう感じではなく、事実を見て呆然とするしかないのですが。実話ゆえに。

 

同時に、雪山の魅力や雄大な自然に心を奪われる。

すごい星に生まれてきたんだなとも感じます。

 

雄大な世界を少しずつ前進する小さな人間。人は、その世界の全てを見る事は出来ない。今この瞬間に目に映る目標に向かって、翻弄されながらも、歩んでいる。人生とはこういうものなのかもしれないなと思います。

 

映画「二十四の瞳」と令和の日本

「あなたが悪いんじゃない、親も悪くない、色んなことが重なってこうなってしまった」

 

映画「二十四の瞳」の主人公、大石先生が、悲しむ誰かを励ます時に語った言葉です。

 

自分ではどうしようもない“何か”がまとわりついたまま、人々は生きていました。

それは戦争もそうなのかも知れませんが、戦争だけでもありません。

この言葉は、政治批判でも戦争批判でもありません。「偉い人が悪い」とか「戦争のせいだ」と言ってませんので。

“何でも正直に言ってしまう”大石先生が、そう言ってないんです。

つまり、「市井の人だけでなく、政治家も憲兵も偉い人も例外なく、どうにもならない何かにまとわりつかれて、今こうなってしまった」という感じですね。

 

とにかく、「人間は、どうすることもできない“何か”にまとわりつかれている」という感じです。

子供も、大人も、偉人も、市民も、誰も彼も。

 

 

親を助けるため勉学を続けられず、奉公に出る子供。

世界恐慌による不況で仕事を失い子供に不便をかけるしかない親。

生まれてすぐ母を亡くし母乳がないために生きられなかった赤ん坊。

軍人を志願し、戦場で視力を失い、終戦を迎え「死にたい」と話す青年。

大きな声で「戦争反対」と語れない教師たち。

仕事を失わず、食には困ることなく生活する人。

“アカ”を取り締まる憲兵

戦争を決断した政治家。

玉音放送で語る天皇陛下

 

その誰もが、例外なく、どうにもならない“何か”にまとわりつかれながら、いた。

 

学校の点呼でみんな「はいっ」と元気に返事をした12人の子供たちも、それぞれにまとわりつく何かから逃れられるわけではありませんでした。

 

「自己責任だよ」と軽々しく話す現代の者達は、彼らに何とアドバイスするのだろう?

 

「戦場で視力を失って死にたい?軍人を志願したのは自分だろ?そうなる可能性くらい予測出来ただろう?自己責任だよ」と考えるのだろうか。

「本当に教え子の命が大切なら、自分が逮捕され暴行されるリスクを顧みずに教育出来ただろう?教え子の命より自分の命が大切だっただけだろ?自己保身だろ。自己責任だよ」と考えるのだろうか。

「すぐに亡くなる母親のもとに生まれてくるから生きられないんだよ、自己責任だよ」と考えるのだろうか。

 

大石先生の言葉は、「あなたは悪くない、親も悪くない、色んなことが重なってこうなってしまった」でした。

 

現代では責任逃れの典型のようなセリフと考えられるかもしれません。

だけど、大石先生のこの言葉が、責任逃れではないと感じたんですよね。

 

ただひたすらに、自分ではどうにもならない何かがまとわりついている。

そんな中で、十人十色の苦悩や思考や人生がひたすらに続いていました。

 

映画の前半で、牧歌的な歌を教えていた教育は、中盤から戦火とともに軍歌を教える教育に変遷し、映画の後半で終戦を迎えるとともにまた牧歌的な歌を教える教育になります。

大石先生が新任教師の頃1年生だった子供達が、初めて学んだ歌は牧歌的な歌でした。まだ平和が残っていた時代で、食事もそれなりにあったのかもしれません。

一方で、戦火を迎える中で1年生になった子供たちは、初めて学んだ歌が軍歌なのかもしれません。平和ではなく不況で、食事にありつくのも大変だったのかもしれません。

 

「あした浜辺をさまよえば 昔のことぞ偲ばるる」

 

それぞれ偲ぶ昔とは、どんな昔なのでしょう。

彼らにそれを何とか出来たでしょうか。

 

そして、この奇妙な変遷の中を生きた人たちは、もうほとんどいなくなりました。

「こうすれば戦争に向かわなかったんだよ」「あの判断が間違いだったんだ」なんて簡単に言うのは、知らない世代かもしれません。

「知らない奴は簡単に言ってくれるよ。どうにもならない何かがまとわりついていたのに。現代でもそうだろう?」と言われるのだろうなと思えてなりません。

 

現代の日本は、この時より恵まれているとも思えるんですが、同時にこの時と何も変わらないとも思えます。

 

美しい日本の歌と攻撃的な日本の歌とが入り混じっていて、現代に続く日本という国が内包する美しくて汚れた特性にまとわりつかれる感覚。

 

解決策は見つからない。

映画を見ていると、当時を生きた人たちの無力感がすごく伝わってきます。

 

それは現代でも何ら変わっていなくて。

「戦争に反対する教育や発言はアカだ」「お国のために」「鬼畜米英が」といった言葉の背景にある‘何か’がまとわりついた彼らに、抗う術はあったのだろうか。

「自己責任だよ」「努力が足りないのだ」「他国の脅威が」といった言葉の背景にある‘何か’がまとわりつく現代、それに我々は抗うことが出来るのでしょうか。

結果、我々は学ぶことなく、日本人同士で分断し合い、世界と分断し合っている気がします。

 

「あなたは悪くない、親も悪くない、色んなことが重なってこうなってしまった」

本人を責めるでもなく、周りを責めるでもなく、世相や時代を責めるでもなく、自分を責めるでもない。

世に分断を産まず、敵を作らない、この言葉の持つ深みが、いま改めて感じるものでした。

 

映画の中で大石先生が触れた二十四の瞳の行方を見て、この言葉の真相に触れてみると、より楽しめるのではないかと思っています。

 

壷井栄さん小説が原作。1954年公開の木下恵介監督による作品です。

かなり古いですね。

 

敗戦から9年、GHQの統治が離れて2年、沖縄はまだアメリカの支配下にあり、朝鮮戦争が終わって神武景気に浮かれる中、自衛隊が発足という安保闘争の黎明期とも言える時代に公開されたわけですが、当時の戦争を経験し復興に苦しんだ方だけでなく、現代でも突き刺さる映画だと思います。

 

白黒の映画ですし、ところどころ音声が潰れてしまっていて聞き取りづらかったんですが、なお素晴らしい名作だと思います。