「子供の教育に悪い」
みたいなものがいくつかあると思います。
「それ、自分が子供の頃には日常的にあった世界だよなぁ」と思うものもたくさんあります。
だとするならば、大人はこう考えていることになります。
今の大人が子供の頃に、もし「今、子供の教育に悪い」とされるものに遭遇しなかったら、今の大人は素晴らしい存在であった。しかし、子供の頃にその世界に触れたがゆえに今の大人はクズしかいない。
ね。となるとまた疑問がわいてきます。
このクズな大人が考える「子供の教育に悪い」ものとは、本当に子供の教育に悪いのだろうか?
なんか、クズな大人のエゴでしかないことになってしまいます。
「この人、深いなぁ」と思わせてくれる人物というのは、害悪に全く触れなかった人というよりも、色んな思想とか人生観とか言葉とか人とか、多くのものに触れてきたがゆえにそうなってるように思います。
大人が子供の「色んな経験の機会」を奪うのは、本当に慎重にしないといけないのではないかと思ったりします。
「絵本はいいけどマンガはダメ」「トランプやウノは良いけどスマホはダメ」みたいな根拠のよく分からない理論は、本当に子供から経験を奪ってしまわないだろうか?と。
「過激な暴力表現に触れてはならない」みたいなものもそうだし、「過激な思想に触れてはならない」みたいなものもそうかもしれませんが。
今の大人が子供の頃、スマホはなかったかもしれないけど、なかったから猛烈に勉強ばかりしまくっていたのか?と問われたら、だいたい「外で遊び回ってました」と答えてるじゃないですか。今の子供も同じようにスマホで遊び回ってるから、勉強しなさ加減は同じじゃないかと思ったりもします。
「外ほっつき歩いてないで勉強しなさい」と「スマホしてないで勉強しなさい」はほぼ同義語です。
で、じゃあ今の大人は、子供の頃に外で遊び回らなければマトモな大人になってたと思うのか?という話でして。
いやぁ、その経験こそが人物を深くしているのではないのか?と思います。
大切なのは、それによって偏りすぎないことと、人を見ることではないかなと。
例えば、日本赤軍なんかは勉強しすぎて人が見えなくなったパターンでしょうか。ひたすら過激になっていって、国家転覆まで思考が進むのは人が見えていないからでしょう。
医療の世界でも、勉強しすぎて人が見えなくなってしまう人もいます。「病を見て人を見ず」とは昔からよく言われます。コロナ禍で、このような人が医師だけでなく一般にも沢山いる事が浮き彫りになりましたが、ひたすらワクチン推進を喧伝したり、あるいはワクチン反対を喧伝して対立していました。病を見て人を見ていないからそうなるわけで。
きちんと人を見て、偏りすぎず、いろんな世界を見ることが人を豊かにするのではないかと思ったりします。
そのために、あまりいろんなものを排除してしまうのではなくて、なるべく広く多くのものに触れられる環境をきちんと守る事と、人間を知る事、そして偏りすぎた時に元に戻れる教養を育むことが大事な気がします。