深読み気分を満喫するブログ

人生とはなんぞや?人間とはなんぞやー?

ビジネスなオンラインサロンが向いてる人

オンラインサロン入ってビジネス成功するぞ!的なものをどう考えるか?というお話。

とりあえず、むちゃくちゃ偏見満載でいきますことをお許しを。

とりあえず結論から。

オンラインサロンで、普通の人にはほぼ何も起こらない。

元々優秀さが突出している人がスーパービジネスマンになる場所としては大切。

という感じなのだと思っています。

 

それは、例えばスポーツを例えにして考えてみると分かりやすくなるのではないかと思います。

メジャーリーグの選手が野球教室(オンラインサロン?)をしていたとします。スーパープロフェッショナルな合理的な練習法が取り入れられています。「これで自分はメジャーリーガーになった」と。

その野球教室に、野球経験者が行って、バリバリ練習したとしましょう。

さて、皆んながメジャーリーガーにならないまでも、メジャーリーガー級の選手になれるかどうかです。

もともと運動能力や身体的に突出して恵まれている俊傑達がメジャーリーガー級の選手になることはあるかも知れません。

全員が、野球は上手くなるのだと思いますが、「前より野球上手くなったね」ではビジネスになりません。「野球上手くなったね、だけどそれくらいの野球能力の人はごまんといるから。」という感じでしょうか。

メジャーリーグの世界には、そもそも運動能力や身体的に突出して恵まれた俊傑達が集まっていて、彼らが合理的な練習をして、その俊傑達だけの集団の中の更に俊傑を育て上げる事でヒーローが生まれます。

いやいや、身長低い人もいるよ!とか言われますが、遺伝子的に例えば「速筋が多いゆえに他人より瞬発力が高い」とか、「筋肉量が多い」とか、「動体視力を司る神経や筋肉の組成」だとか、「神経伝達速度の違い」だとか、何らかの遺伝子的なアドバンテージを持っているのだと思います。遺伝子の問題なので、後天的に何かできるわけではありません。

「もともとの俊傑」というのは、そういう感じです。

 

上述のような場所には、一般的には事前に実績の既にある選考された俊傑達が集まります(一般人は参加出来ないです)が、オンラインサロンでは、その事前選考を受けていない、俊傑でもなければ、まだ過去に何も実績を残したこともないような普通の人も気軽に行くことが出来ます。

ゆえに、オンラインサロンでは上述の場所以上に、成功率が下がるような気もします。

それは、どんなオンラインサロンであれ、俊傑達がスーパービジネスマンになることはあれど、凡人がそうなれるような場所ではないのではないかと思うからです。

一般人も少しだけ仕事が出来るようになるかもしれませんが、「仕事出来るようになったね。だけどそれくらいの能力の人はごまんといるからね。」やはり同じ現象が起こるのではないかと。

 

オンラインサロンには、一般人をスーパービジネスマンに生まれ変わらせる能力は、はなから無いという感じがします。

オンラインサロンの運営者達は、元々から突出して優秀な人だけしかスーパービジネスマンにさせる能力はないのではないか、という事です。

 

これは、オンラインサロンをディスしてると捉えられるかもしれませんが、そうではありません。

おそらく参加するほとんどの人は、ビジネス的に何も得られないままで金と時間を浪費している状態になります。

僕がいくら優秀なオンラインサロンに参加しようとも、同じく金と時間の無駄に終わって何も手にしないだろうなと思っています。なぜならば、僕は突出した能力が今現在もないただのパンピーだからです。

 

しかし、その中に俊傑がいて、その人にとってはめちゃくちゃ早くビジネスの成功に導いてくれる場所になると思うわけです。

 

オンラインサロンの運営の方は、おそらく大量に参加するパンピーの中に混ざっている俊傑を待っているのではないかと思ったりします。俊傑を少しだけ早くスーパービジネスマンにする能力しかない事が分かっているはずだからです。(分かってない視野狭窄もいるし、分かった上で詐欺師的な人もいるけれども)

 

やり方は色々あって、例えば西野さんなんかは単価を安くして裾野を広げていて、母数を増やして俊傑が集まる確率を上げている感じですかね。無駄金を払うパンピーも無数に集まってくるデメリットはありますが、母数主義です。

一方で、ホリエモンなら単価を高くして、パンピーの確率を下げる感じでしょうか。間口を狭めて俊傑が集まる確率が上がるわけですが、裾野は狭いです。金のない俊傑は参加できないですね(金のない俊傑なんか、基本いないと思いますので、そういう方法なのかもしれませんが)。

 

そこから考えてみると。

オンラインサロンに参加するのをお勧め出来るのは、具体的に言えばビジネス的に何かを得られる人は、もともと傑出した能力のある人だけだと思います。

ポイントは「今、既に突出している」こと。

「他人と比べて、ちょっと得意なことがある」程度では無駄金と無駄な時間を浪費するだけかもしれません。

「そもそも他人と比べて、ちょっとどころの差じゃない、圧倒的な差を持ってこの能力がある。他人を全員、秒で蹴散らせるくらいに突出している」くらいに思っている人だけが参加の意義があると思います。

そういう方々が、スーパービジネスマンになるスピードが少しだけ上がると思うからです。

 

「今、既に」ということで、「今はまだ突出してないけど、未来は」と望んでいる人も厳しいと思います。「一般人が、参加した後に、他者よりも圧倒的な差が手に入る」なんて事は絶対に起こらないと思います。可能性は微塵もないというか、ゼロ。そういう場所ではないので。

ちょっと能力は上がったとしても、「そんな程度なら他にいくらでも」という状態であり、すなわち参加する前と何ら状況は変わらないですからね。

 

あくまで、ビジネスの観点からですけれどもね。

スーパービジネスマンの中にも聖人もいればヒトラー的な差別殺戮主義者もいますし、凡人の中にもスーパービジネスマンの誰一人として足元にも及ばない聖者がいたり、逆に妬みツラミの攻撃的な人までいますので、ビジネスの観点だけで人を測るのも偏った話ですから、バランス感覚もっていきましょう。

僕は、人間力もビジネス力もどっちもなくて困ってますが。深読み気分の平凡な思考力で頑張ろうと思います。

 

あとは、ファンクラブ的な、推し活的な方なのであれば、存分に楽しめば良いのではないかとも思います。

 

優秀な方が日本にも世界にも沢山おられると思いますので、ぜひ頑張ってもらいたいです。

同時に、無駄な時間を過ごす方が減れば良いなぁとも思ったりします。

一般人にとっては、オンラインサロン以外の場所にビジネス成功の秘訣はありそうな気もします。オンラインサロンには少なくともそれはない。

 

というわけで、偏見にまみれまくった考察でございました。

「かつての戦争の反省」を、今の日本は活かせているのだろうかというお話

第二次世界大戦で、日本の戦死者は230万人だそうです。

大量に亡くなってるわけなのですが、その半数を超える人は、餓死や病死だそうです。

戦闘どころではなかったことが分かります。

「石油や武器や弾丸など資源がなくて戦闘を続けられなかった」との分析(戦力差で負けた)が多いですが、現実には食べ物がなくて戦闘どころではなかった。

彼らは、言わば大日本帝国政府に餓死させられた方々とも考えられます。

大日本帝国が自ら殺害した日本兵が100万人以上いるとも言いかえられるでしょうか。

国家として、食べ物を食べないことによる自殺をしたのが大日本帝国という感じでしょうか。

 

いずれにせよ、大日本帝国は、軍備を揃えるための防衛費を積み上げていきましたが、兵糧に関しては疎かにしていたのかもしれません。

大日本帝国には賛否あるようですが、この一点に限れば悲惨だなと感じざるを得ません。

先の大戦大日本帝国は、食糧がなくて負けた。

 

翻って、現在の日本はどうだろうかと思ったりしています。

軍備を揃えていこうと防衛費を上げています。

一方、日本の食料自給率は38%。なかなか悲惨な状況でして、兵糧が枯渇する自衛隊員の餓死戦争を性懲りも無く繰り返しそうな様相です。

かつて大日本帝国の食料自給率は90%近くありましたが、3年で食料は底をつき、100万人を超える日本兵が(日本国民も同じくですが)餓死して敗戦しました。樺太、台湾、朝鮮、満州など、今の日本よりもはるかに巨大な領土領空領海を持っていて、巨大な制海権・制空権のもとシーレーンの確保が今の日本よりもはるかに容易な大日本帝国が、です。

食料自給率38%、一体何ヶ月もつのでしょうか。沖縄から北海道までの領土領空領海である今の日本は、小さな制海権・制空権のもと、シーレーンの確保は大日本帝国よりもはるかに難しいように思います。

「半年間はじんわり攻めて、自国の損害を抑えましょうや。で、半年後に自衛隊員が餓死し始めた頃に悠々と乗り込んで一気にいけば短期決戦で楽勝ですぜダンナ!」と思われたら抑止力も何もあったもんじゃなさそうです。

餓死した自衛隊員の横に、いくら兵器を並べても、守れたもんじゃありません。

「かつての戦争の反省のもとに」とよく語られるわけですが、あまり活かされていないのではないかと感じます。

「防衛費を上げろ」が重要ではないとは言いませんが、かつての第二次世界大戦で亡くなった多くの日本兵の惨状を知るにつけ、日本の現状が当時の惨状の繰り返しを受容しているかのようにも感じたりしています。

 

靖国神社に参拝する政治家さんがおられます。

「自国のために命を投げ打った英霊に感謝と尊崇の念を」と仰るわけですが、「大日本帝国が餓死させた日本兵への謝罪をしに行った」と仰る方は見たことがありません。

しかし、国民の代表たる国会議員として、なんかそういうことがとても大切なんじゃないかと僕は思ったりしています。

 

もとい。

「かつての戦争の反省を」とは一体何なのだろうか、なんて事をふと思うわけです。

 

戦後すぐの頃、戦争体験者(国民ではなく、戦場にいた方)は、食うものが何もない戦闘どころではない戦場にて、ただただ野垂れ死ぬしかないところから奇跡的に帰ってこられて、日本の復興を支えておられました。

100万人を超える日本の兵士が、「祖国から見捨てられた」と思いながら、日本から遠く離れた見知らぬ森の中、空腹でガリガリになって動けなくなり、座り込んだまま死んでいったのではないかと思います。

「もうあんな場所には戻れない」と思えるような場所から帰ってきた彼らの言う「かつての戦争の反省を」という言葉と、現代の餓死戦争を知らない方々の言う「かつての戦争の反省」とは、意味合いが違うのではないかと感じたりします。

過激な右派は良く言います。「あれは連合国が悪いのだ」「我が国を貶めるな」「かつて日本は美しかった」

その通りなのかもしれません。

過激な左派は良く言います。「戦争は悲惨なのである」「軍国主義がダメなのだ」

その通りかもしれません。

しかし、そんな右だ左だというイデオロギーの問題なんて、反省を活かす観点からは些末な話なのかもしれません。

「日本が反省すべきは戦争に負けたこと、ただそれだけ」なんて言う人がいますが、反省すべきは全くないわけでもないどころか、反省すべきことも多数あって、それを今、日本は活かせているだろうか?という事は、イデオロギーを横に置いて考える必要があるのではないかと感じるわけです。

 

まるで大日本帝国の惨状をなぞるように食料問題を放置したまま防衛費を上げている現状を見て、当時の戦争経験者達は何を思うのでしょうか。

もし戦争が始まったらどんな事が起こるだろうかと想像すると、あまり良い未来は想像し難いのが現実なのではないかと思えます。

相変わらず、食べるものが無くなって、自衛隊員が次々と餓死していく中、「しかし祖国のために降伏はしない」のだとすれば、一体どうやって守り抜くつもりなのだろうか。

また一億総玉砕の国民に竹槍持たせるみたいな事もありそうな気もします。

まぁ、大日本帝国は守るべきものは最終的には「天皇」でした。立憲君主制の帝国ですから、君主を守るための軍。ゆえに国民が死のうが軍人が死のうが、天皇さえ守れれば良かったのかもしれません。

今は国民主権で、自衛隊も「国民の命を守るため」にあるのだと思いますので、天皇を失ってでも(←そんなこともあってはならんですが)何よりも守るべきものが国民である、という意味では当時とは違うのかもしれません(と思いたい)けれども。

 

付随する話ですが、戦争末期、大日本帝国は桜花とか回天のような特攻専用機の開発やら設計やら作戦策定に国家予算やら人材を投入していましたので、相当無駄な時間と人と金を浪費して自国軍人を殺す兵器開発や作戦を国会で審議して国会議員が多数決で可決して国家命令として特攻作戦を推進したという、もはや謎の行動をしています。

国防費を何に使うのかは大事なのだと思いますが、今の日本はトマホークを始めとして化石のような装備に金をかけているらしく、相変わらず無駄な時間と人と労力を会議にかけて賛成多数で可決してやっている。世界各国がマシンガンを装備する中、火縄銃の装備を買いまくる事を決定するような議論をしているようで、やはり「かつての戦争の反省」が活かされているようにはあまり思えなかったりします。

 

ウクライナとロシアの情勢に感化されて、なんとなく一方向に突き進んでいる時に、今一度立ち止まって見つめ直すべき歴史があるように感じたので少し書いてみました。

自助と共助と公助と

「まず自助努力をせよ、無理なら共助を求め、それでも無理なら公助である」

こういう順番でよく語られます。

そして、「自助努力もせずに公助や共助を求めるべからず」という話をされる人がいまして。

いわく「共産主義的思想だよね」だそうなのですが。

それが本当なのかという話です。

 

例えば、警察という仕組みを考えると。

「まずは警備訓練と格闘の訓練をせよ、無理なら自身でボディーガードを雇い、それでも無理なら警察に頼れ」

という順番であるとすれば、「格闘訓練もせずに、ボディーガードや警察を求めるべからず」になるかどうかです。

 

例えば、軍隊という仕組みを考えると。

「まずは軍事訓練と武器調達を個人でせよ、無理なら私設傭兵団を雇い、それでも無理なら国の軍隊に頼れ」になり、「軍事訓練もせずに、私設傭兵団や軍を求めるべからず」になるかどうか。

 

もしそれが正しいとすれば、軍事訓練も受けずに「自衛隊を強化せよ」と言う人は共産主義者だという話になる。

と言う事は、日本の保守政治家と呼ばれる方々本人は軍事訓練なんてやってませんから、「自助努力(本人が軍事訓練するかどうか)に関係なく公助(自衛隊)を充実させよ」という話をされているわけで、彼らは総じて共産主義者ということになる。

 

日本の左派と呼ばれる方々も、「社会保障を充実せよ」ということで、「自助努力(労働能力)に関係なく公助(社会保障)を充実させよ」という話をされているわけで、やはり共産主義者ということになる。

もしかして!!日本には共産主義者しかいないのかもしれない!!!

 

なんて、そんな事はないと思うわけですよ。

公助と自助と共助は、個別に存在するわけではなくて、はなからセットなので、「自助が先」とか、「公助が後」とかみたいな前後関係や前提条件になるわけではないよね。

 

何を大切にするかで、どんな公助を考えるかが違うのかもしれませんが、公助があるがゆえに自助は出来るし、自助があるがゆえに公助が出来るわけで。

 

そういう意味で、「この新自由主義めが!」と「この共産主義者めが!」は、おまゆう関係にしか思えないわけなのですが、割とこのブーメランの投げ合いが頻繁になされているなぁなんて観察しています。

案外、この対立してる方々は、「公助を求める者同士」で仲良く出来るんじゃないのか?と思ったりもしています。

【思考実験】軍隊のない国の末路

 軍隊を無くすと攻め込まれる。

まぁそうだと思うんですけども。

 


思考実験的に、軍隊を持たない国に攻め込む「理屈」というものを考えてみたら、案外難しいなと思いまして。

ちょっと書いてみる。

 


戦争って、どうやらルールがあるらしくて。

 


「民間人への攻撃禁止」

これがルールとして定められてるらしいです。

民間人に被害が出たら「誤爆」って言われてますから、それは世界共通認識なわけですよ。多分。

 


「誤ってやってしまう」事はあっても、「民間人殺害」そのものを目的にする訳にはいかない。あるいは、「民間人に被害が出ても仕方ない」とか「構わない」などと考えてもならないし、あるいは外部からそう見えてすらいけない。

「あくまでも軍人に向けて撃った。攻撃目標は軍隊だ。民間人を攻撃目標にはしていない。」と言いはっていくわけですよ。それが本当か嘘かは別にして。大義名分ですな。

 


で。

 


軍隊を持たない国ってことは、外形的には「民間人しかいない国」ってことですよね。

 


軍隊のない国に、軍隊を持つ国が軍を派遣するとしましょうよ。

どこの誰を攻撃するの?

攻撃対象、なくない?

軍隊を派遣するための、それっぽい口実が何なのだろうかと。

「宣戦布告」した瞬間に「民間人殺害」を宣言するのと同じ意味になりそうな気がします。

 


そうなると、宣戦布告は出来ないし軍隊を派遣することも大義が立たなくなりそうです。

だって、攻撃対象やら攻撃目標がないですから。

 


民間人しかいませんし。

マジで「どうやるの?」ってちょっと疑問に思いませんか?

 


真の目的が「侵略」であったとしても、国際社会になんらかのそれっぽいメッセージを出さないといかんわけです。

何て発表します?

 


いや、僕は答えを持ってませんけど。

思考実験的に、なかなか難しいネタやなと思っていまして。

 


「うーわお花畑がいるよ、攻撃される時は攻撃されるんだってそんなの」とか言う人がいそうなので、一応補足すると、そうだと思うんですよ。現実問題。

日本が戦争しなかったとしても、海外の紛争地域に日本人が取り残されていたら、日本の軍組織みたいなのを送って助けに行かざるを得ない事もあるでしょう。日本の民間人送るわけにはいかないですし。戦争しないからと言って「軍を持たない」なんてのは、現実的ではないのだろうなと思います。悲しいかな。

 


これはあくまで思考実験みたいなもんです。

みなさんが軍隊を持つ国の指導者だとして、軍隊を持たない国に攻め込む時の「大義名分」を、どう言葉にしますでしょうか?

 


なかなか難解なのではないかと思って書いてみました。

謝ることは心配する心かもしれない という話

 「ほらあんた!あんたが悪いんだから!謝りなさい!」

悪い人が謝るという方程式がどうもしっくりこなくてですね。

例えば、気付かずに足を踏んでしまって「あ!ごめん!大丈夫?」なんて謝り方は誰しもした事があると思われます。

わざとじゃないけど、悪い訳じゃないけど、謝るじゃないですか。

「わざとじゃ無いなら謝らなくていい!」なんて言って、偶然足を踏んでも「はぁ?わざとじゃないですけど、なんで謝らないといけないんですか?」とかいう人間はどうなんだろうとも思います。

「結果として〇〇になりました、残念です。しかし、あの時の判断は妥当でした」とかよく聞きますが、なんか釈然としません。

悪い方が謝る、なんかそれだと抵抗があるなぁと。

 


どんな風に考えたら良いだろうと。

で、思ったんです。

 


「謝る」とは「心配する心」

心でも体でも、傷つけてしまった相手を心配する人が「ごめん」という言葉を使う。


そういう風に考えるのはどうだろうかと。

 


ーーーーーーーーーー

「ごめん」というのは、相手を思いやって心配する人が使う言葉です。

わさとでも、わざとじゃなくても。傷ついたかもしれない相手を心配する人が使う。

「きつく言いすぎてごめん」「叩いてしまってごめん」「当たってしまってごめん」「壊してしまってごめん」

「傷はもう大丈夫?」

この相手を思いやる心を持つ人が「ごめん」と言う。

悪い人が謝るんじゃない、心配出来る人が謝るんです。思いやりのある人が謝るんです。

相手を思いやって心配出来る人は、素晴らしいと思います。あなたはどう思いますか?あなたはどんな人になりたいですか?

そういう人になるとあなたが決めるなら、今から、あなたのその心配を、「ごめん」という言葉で伝えてあげましょう。

許してもらうのが目的じゃありません、あなたの心配をただただ伝えることだけがあなたが謝る目的です。

あなたの心配や思いやりがちゃんと伝わるように、誠心誠意謝りましょう。

ーーーーーーーーー

みたいに考えれば、社会が少しでも良い方向に向かって行かないかなぁなんて思ったりしました。

まぁ捉え方の一つでして、それが全てではないからややこしいわけですが(汗)

「ありがとう」と「ごめん」を言うことは、とてもとても人生を豊かにする。とは思います。

まぁ、僕自身出来てるのかと言えば、怪しいですけどもね。

自分がやらないとね、とも思います。。

生命活動と老化を考える

「今日は昼食べられないから、朝に多目に食べとこ」


という行動の謎に迫ろうと思ったら、なんかよくわからない思考に至ったので、書いてみようかと。


生き物って、生まれた瞬間から老化していきますよね。赤ん坊の頃は「おお、〇〇ちゃん、立った立った!老化したなぁ!」とか言う変な人はいないと思うけど、とはいえそれすら老化といえば老化。生きるということは、老化していくことと同じ意味を持っています。


氷漬けになれば、生命活動が止まりますが、それは老化が止まるのと同じです。だから氷漬けはそのままの姿で残される、というのも、まぁなんとなくそうかと思えるわけです。


生命活動とは老化活動であるとするならば、活動エネルギーとは老化エネルギーでもある、ということになりますよね。


例えば、酸素は活動エネルギー源です。同時に酸素は酸化物質、つまりものを腐らせる物質ですから、人の体を老化させる物質でもある。


あるいは、グルコース。つまり「糖分」。グルコースは活動エネルギー源です。しかし糖尿病は、心臓やら血管やらが損傷していくし、平均寿命が10年短い。つまり早く臓器が老化していくし、老化が早いから早く死ぬ病気です。グルコースは生きるのに必要だけど、とはいえ老化促進物質でもある。


エネルギーとは、少量の毒物なのかもしれません。そういえば、薬は毒物から発見されることも多いです。少量の毒物は薬と呼ばれたりしますが、そもそも毒物。もちろん多ければただの毒ですが。


ともあれ、生命は、自らを老化させるために、毒物である酸素や糖分などをちまちま摂取しているようにも受け取れるんですよね。変な受け取り方ですけども。


摂取量が過剰であればあるほど老化速度は早い。過剰でなければ、老化の速さはゆっくりになりこそすれ、止まることはないので、誰でも老化します。何故ならばそもそもエネルギー源は毒物だから。そしてエネルギー源なので、なくなると死にます。


生命とは毒物を摂取したい欲望とか自らを滅ぼしたいというプログラムが組み込まれているのだろうか?


という謎な理論を、ふと思いついたというだけのお話です。。


当然、現実的には生命活動に必要だし、生命は老化するものなので、過剰摂取の問題しか残らないですけども。生命活動とはなんぞやと、ちょっと考えたり。


あぁ、冒頭の食い溜めの話ですが。


例えば、「これから1ヶ月断食するから、今日の夕食は1ヶ月分の食事量を全て食べるぜ!」には、多くの人が「おぉ、、だ、大丈夫かそれ?死ぬんちゃうか?」という反応だと思うんですけど、「今日は昼食べられないから、朝に多目に食べよう」はオーケーって、いや、それどういう理屈?という話です。


瞬間的にドカンと過剰摂取は良くないよね多分。おにぎり作って持って行こう、せめて。というところから「生命は実は死にたいのだろうか?」という謎の理論展開に至るという。

キラキラネームってどうよ

前回、名前の話をしたので。

キラキラネーム、どうですか。

先に個人的な立場を言った方が良いと思うのでお伝えしますと、僕はいわゆるキラキラネームを見ると「センスあるな」と思ってしまう人です。

「本気」と書いて「マジ」と最初に読ませた漫画が多分どこかにあると思うんですけど、「その漫画家、センス良いな」とか思っちゃうわけでして。

もう少し古いところに持っていくと、「あじさい」を「紫陽花」と書いた最初の人がどこかにいるんだと思うんですけど、やはり「その人、センス良いな」とか思っちゃう。

 

もともと日本で使われていた「やまとことば」に中国から伝わった「漢字を当て字」した結果が訓読みの誕生なのだとすれば、

当て字は日本の文化です。なんて言ってしまえるのかもしれないなと思っています。

「coca-cola」を「コカコーラ」、「happy」を「ハッピー」って漢字由来のカタカナで当て字にしてるし。漢字由来のひらがなである時もありますが、日本の文字は全部漢字由来で、そう考えると、日本語はことごとく当て字なんじゃないかとも思ったりしています。

日本は卑弥呼の時代から長きにわたって中国文化の影響を受けてますし、まぁ今もそうかもしれませんが。

「その漢字は、そんな読み方しない?なるほど、中国に留学して中国読みの名前にするの?漢字は中国だよね?ムーチェンさんとかルォシーさんとか?」とか言われたらどーすんのかなとか思っちゃうし。困っちゃう。

昔の日本人が作った当て字は良いけど、現代の人はやってはダメっていうのも変な気もしますしね。今の日本人も文化を作ったって良いんじゃないかと。

 

まぁ僕はそういう人間なんですけれども、キラキラネームは一定数から嫌われているみたいでして。

 

嫌われる理由は、「声に出した時に日本ぽくない(外国語っぽい?)」に収束されるのではないかと思っています。

「ココア」とか「ララ」とか「カイト」とか「ティアラ」とかでしょうか。

一方で、声に出して日本っぽければ、あまり批判も少なめでして、「羽生結弦」さんなんかはあまり言われませんね。「ゆずる」だからでしょうか。

「心愛」の「心」も「愛」もぶった切りだけど「結弦」の「結」はあまりぶった切りと批判されてないのを見ると、ぶった切りは本質ではない気がします。なんなら、我が国の名前「日本(にほん)」も「に」ですからね。「日本語(にほんご)」。「にち」じゃないし。

 

他にも色んな批判がありますが、それらもあまり本質的ではない気がします。

例えば「一発で読めない」という批判とかも、「剛」くんとかは、「つよし」なのか「たけし」なのか「たかし」なのか「ごう」なのか「たける」なのか分からないですし、「愛」ちゃんも「あい」なのか「めぐみ」なのか「まな」なのか分からないですし。「和也」が「かずや」なのか「かずなり」なのか「ともや」なのかも分かりません。複数読みは元来当て字文化の日本ならではでしょうから、キラキラネーム特有の問題というわけでもなさそうでして、本質ではなさそう。

 

意味がおかしい」という方もいます。

ココアは飲み物ですしね。カイトは凧ですし。ララなんかは擬音ですね。名前じゃねーよ的な。

しかしまぁ、モモさんは果物だし、スミレさんは花、カスミさんは霞みでしょうか、ウメさんやサクラさんは木、ヨネさんは米、トラノスケは動物、リュウは架空の動物ですよね。なので、これも今に限った話ではないので、あまり本質とは違う気もします。

 

漢字本来の意味が!派もいます。

「「幸」幸せじゃないですよ。手枷ですよ。学ないですね。」

いや、マジですんません学なくて。

「「幸」をしあわせ、なんてDQNな読み方をさせた平安時代の学のないボケどもは」という考えなのかもしれませんね。アメリカなんか米国ですし、ロシアなんか露国ですし、米の国?露の国?ふざけるなと言いたいですね。

なんなら、ひらがなやカタカナを作り始めた奈良時代平安時代くらいから日本語はもう本来の意味を無視して乱れ始めてしまってます。上にも書きましたが「happy」を「ハッピー」と漢字由来のカタカナで当て字にしてますが、「ハ」は漢字の「八(はち)」ですし、「ツ」は「川(かわ)」だそうです。「ヒ」は「比」だそうで、「ー」やら半濁音は何か分からないですけど。これ、ハッピーなの?と思いますよね、確かに。ひらがなやカタカナの名前も安易に付けない方が良いかもしれませんね。本来の漢字の意味がありますし。だけどほら、そんなこと言い出すと、崩壊しそうでしょ?日本語が。日本人は本来の意味など過去にバッサリ切り捨てて「当て字文化」っぽいですから、つきつめると本質的とも考えにくいですよね。

 

また、「外国に行ったら困る、この国際社会の時代に」という意見もありますが、これも本質とは違う気もします。

例えば、海外には「アホネンさん」とかいます。まぁ日本人じゃないし日本語の名前じゃないんだからアホという響きが入ってたとしても意味違うわけで、別に馬鹿にもされないと思いますけども。アホネンさんを見て「国際社会を知らない親の元に生まれて、そんな名前で、可哀想」なんて思うとすれば、それこそそう思う人こそ国際社会の人としてやばい気もします。

有名どころだと「ゆうだい」くんが、「おま、それyou dieってか?」とか。

「ここあ」さんも「おま、それ飲み物(笑)」とか。

よっぽど教養も礼節もない人は言うかも知れませんが、それ以外は言わなそうな気もします。国際社会だから困るというより、国際社会だからこそ色んな考えや文化の違いを受け入れる素養があって困らない気もします。

 

「大人になってその名前は」なんてことも言われますけれども、かつての幼きかわいい赤ちゃんの象徴「ウメちゃん」は、大人になると恥ずかしくなったのでしょうか。年齢とともに「ウメお嬢さん」「ウメおばさん」「ウメおばあちゃん」で、問題なく来たのではないかとも思ったりもします。その名前のまま時代が進むので。そうなると、ちょっと本質的ではない感じもします。

 

となると、やっぱり響きなのかなと。

 

日本ぽい名前の響きが好きな人にとって、あるいはそういう響きを大切にしたいと思う人にとっては、やっぱりなんか名前は乱れているんだと思います。

ほとんどの人は、日本で生涯を過ごしますから、海外がどうとかあまり影響のない人の方が多いでしょうし、そうでなくても日本人らしい名前にしてあげたいと思っているのかもしれません。

日本語らしくない突拍子もない響きは、受け入れ難いのだろうと思います。

日本語を大切にしたいという気持ちはとてもよくわかりますよね。グローバルだから英語でも通じる名前!みたいな極端な思想へのアンチテーゼとしてもあるのかもしれませんが、確かに「グローバルだから英語!もう日本語の時代じゃない!」とか言われたら、えぇーーー?とは思いますし。

守るべきは守りたいなぁなんて思ったりもします。

 

余談ですが、「子供がかわいそう」とか言った方が子供がかわいそうだと思うので(かわいそうかどうか決めるのは子供自身であって、他人じゃないからね)、それ言っちゃダメじゃない?と思ってしまいます。周りが勝手に「かわいそうな子」とレッテルを貼ってしまう事になりますからね。それこそ差別の助長になりそうで。

苦しんでる人もいるみたいですから、その人限定で助けてあげれば良いとは思いますが、「だから他の子も不幸だ」とも限りませんので。

 

あ、僕はキラキラネーム批判する人を擁護も批判もしない立場ですよ。

我が家は、子供には割としっかりした和名をつけましたし。和名が好きなので(笑)和名、よくね?という感じで。なんならペットにも和名付けたいですからね。「おめぇ、日本に住むんだから日本の名前な!」という感じです。コテツとかサクラとかかなぁ。だからと言って、洋名っぽい名前を付ける人を批判する気もないです。和名をつけられた我が子が喜ぶかどうかは子供次第ですし。「なんてダサい名前にしてくれたんだ!外国っぽいのが良かった!」と将来文句を言われるかもしれません。

改名は割と手続きが難しいみたいで、苦しんでる方にすれば、「自分と同じ苦しみを味合わせないように」と慎重になるのはよく分かりますし。一方で極端になって何でも排除し過ぎるのもなんか違う気もします。

 

というところで、キラキラネームって、みなさんはどう捉えておられますか?