深読み気分を満喫するブログ

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映画「PLAN75」分断の果てには??

「選択の自由」は、存在し得るのか?そして、分断の果てには何があるのか?この映画を観て、改めて考えてみるのも良いかもしれません。

 

2022年公開、早川千絵監督の映画です。

 

物語のあらすじは「高齢社会の日本。75歳以上の高齢者が希望すれば自ら死を選ぶ事ができる制度、PLAN75が制定される。高齢という理由で仕事を解雇され、住む家を失った主人公の選択とは。そして、PLAN75を希望した高齢者を火葬のその時までケアする人々を描く」という感じでしょうか。

この制度は、75歳以上なら誰でも何の制限もなく申し込み可能です。申し込まないことも可能だし、申し込んだとしてもいつでも辞退する事が可能です。

「生まれる時は選べないけど、死ぬ時くらい選びたいですよね。これが自分の生き方です、迷いはありませんでした。」笑顔で高齢者が語るCMがテレビから流れています。

皆様なら、どうしますでしょうか?

 

いわゆる「選択の自由」が、75歳以上の高齢者に与えられているようなのですが、「選択の自由」という表現によって「束縛」もたらしているように見えます。

「死ぬか生きるか、75歳になったら決めなければならない」という束縛です。

「選択の自由」という言葉によって、自由を奪われた高齢者が、この映画の中には生きていました。

 

言葉というのは不思議なもので、「尊厳死」「安楽死」なんていう言葉は、何やら悪くない響きを伴います。しかし、「尊厳ある死」なんて実はありませんし、「安楽な死」もありません。

存在しないものを概念として作り上げる、言葉にはそんな働きもあります。

「選択の自由」も、存在しないものを概念として作り上げている言葉かもしれません。

「選択」するわけですから、何らかの選択肢が提示されます。選択が強制され、選択肢に束縛されますから、その時点で既に自由ではない感じもします。

「自由という名を騙る束縛」という表現をすると、ちょっと攻撃的過ぎるかもしれませんが、束縛を仕掛けたい側が相手を懐柔する手段としてはよく見かけます。

 

選択の自由が悪だと言ってるのではありません。人は、ありもしないモノを概念として作り出す事がとても上手で、ゆえに人類は発展したとも言われています。あくまで、それを使う人の問題です。使い方によっては、誰かの自由を奪い、PLAN75のような制度が出来上がる。

「生きるか死ぬか決めてください」だって?そんなこと決めなくて良いよ。それが自由である、なんて僕は思ったりもしましたが。

映画の中では、制度に疑問を持つ者や、制度を批判する者も一応います。

ただし、その制度を止めることは誰にも出来ないところまで進んでしまっていた感じでしょうか。

 

なぜそんなところまで進んでしまうのか?それが、「分断の果て」なのではないか?と思ったりします。

 

映画の中におけるPLAN75という制度は、「高齢者が多い事が問題である」という社会の意識から作られたのであろうと推察されるわけですが、こういう「問題点の履き違え」による意識で分断し、制度を作ってしまうと、何も解決しないのだろうなぁなんて思います。

問題の本質は、本当に「高齢者が多いこと」や「若者が少ないこと」なのでしょうか?

少子高齢化問題」という言葉を作り出した誰かがいるわけですけれども。これもやはり、存在しないものを概念として作り出して、問題にしてしまったのではないかと思ったりします。

「いやいや!事実だし!高齢者多いし!子供少ないし!」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが。

事実を元に作り出した概念だということです。

概念を見るのと、事実を見るのは、根本的に違うと思うんですよね。

事実の方が大切だという話ではないです。概念が無駄だという話でもありません。

事実であろうと概念であろうと、振り回されたら判断を間違えるかも知れないという感じでしょうか。今回は概念の話をしているだけです。

少子化国難です」みたいな振り回されっぷりは、ちょっとなぁと思ったりします。「国難」って、、ねぇ?

少し距離を置いて、眺めてみるのも大切だよなと思います。

問題の本質は「少子高齢化」ではないと僕は思います。

問題の多くは、単にお金の問題でしかないわけで、現在の経済システムの末路と言っても良いかもしれないな、と思っています。

本来奪い合ってもいない高齢者と若者でお金を奪い合っているかのように思ってしまった。

しかし、お金は、奪い合いではなく、一方通行です。

資本主義だろうと共産主義だろうと。

現在の経済システムは、資本のあるところに自動的に資本が集まる仕組みです。「仕組み」なので、それ以外の動きはしません。

資本主義社会では資本家に、共産主義社会では国家に、勝手に資本が集まります。一方通行です。

一方通行ですから、お金はその他大勢から資本家あるいは国家に移動し、そこが肥大化していきます。トリクルダウン?起こらないのだろうなと思います。

共産主義社会は、国家という資本家が肥大化して国民が貧しくなります。肥大化した国家という資本家を国民が倒す事でなくなってしまった国があります。

資本主義社会は、資本家が肥大化して国民が貧しくなる。資本主義社会は、いつか資本家を国民が倒す事で壊れる国もあるのかもしれないけれど、ひとまずその経済の仕組みは動き続けているわけです。

資本家をやっつけよう!という話をしたいのではないです。その分断も違う。経済システムの問題なのであって、資本家の問題ではないからです。

分断の成れの果ては、どう足掻いたって対立です。対立してたって問題は見えないわけで。

問題の本質が見えなくなるくらいに振り回されてしまうと、本来存在しない分断を「ある」と錯覚して、対立が止められなくなるのかもしれません。

映画の中でPLAN75を利用した高齢者は、CMで笑顔で語った高齢者のように生き方や死に方を選んだのではなく、尊厳のある死に方を選んだわけでもありませんでした。

仕事を失い、お金に困り、生活に困り、そして孤独ゆえに「もう生きられない」と思った人たちでした。社会から拒絶され、生きるのを諦めさせられた人でした。

PLAN75の選択とは、自殺することです。

「自殺の最大の理由は経済的困窮と社会からの孤立である」ということが描かれています。

そういう人を、実は高齢者に限らず、見放してしまう社会になっているのだと思います。上述した通り「少子高齢化が問題の本質ではない」のではないかなと。

「仕事ないの?じゃあ、死ぬしかないね」

「そうね。じゃあ、私は今から死ぬから、元気で生きてね、さよなら」

特攻隊員さながらです。悲惨な社会だなと。

そんな社会で生きる子供たちは、幸せなのかなぁなんて思います。

「働かざる者食うべからず」が正しいとするならば、赤ちゃんや子供は食べられません。

赤ちゃんや子供は働けないから仕方ないよね?と言うならば、働けない大人にも同じ事を同じ気持ちで言ってあげられないだろうかとも思います。

「働けないなら仕方ない」ではなくて「働かなくても食べようよ」と声をかけられる人でありたいなぁなんて思ったりもします。

甘いのかもしれないけれども。。

 

冒頭に書いた、高齢者が笑顔でPLAN75を選んだ事を語るCM。

どう思われますか?

「私は生きる事を選びました。今を生きる人々と少しでも時間を共有したい、それが私の人生です。迷いはありませんでした。」と笑顔で語る高齢者はCMには出てきません。CMとはそういうものなのだと思いますが、思考が一方向に持っていかれる感じがします。

生きたいと願う人をサポートする仕組みを放棄して(主人公は働く事を望みましたが、仕事は見つけてもらえません)、死にたいと願う人をサポートする仕組み(PLAN75)を作った社会なのですが、それでもなおCMは美しい幻想を見せるように作られていて、妙なリアリティがありました。

誰でも明るく生きることができる社会であれば、「選択の自由」は自由に少し近付くのかもしれないなぁなんて思います。

 

みなさまは「選択の自由」とはどうすれば成り立つと思われますでしょうか?

そして、分断の果てには何があると思われますか?なぜ分断は起こるのでしょうか?

映画を見て、ちょっと考えるのも良いかもしれません。

誰かを排除することで何かを得るのではなく、人はきっと、みんなに優しく出来るし、そういう社会はきっと作れると僕は思います。

そこにこそ自由も存在するのではないか、とも。

解放か?それとも囚われているのか?

ある事柄からの解放を望む姿は、そこに誰よりも囚われているようにも見えたりする事があります。

 

例えば、性自認の話だとすると。

こういう思考というものが、「性からの解放」のように見えると同時に、「性に囚われている」ようにも見えたりする、という感じです。

元来性別を特に意識せずに生きていたのが、LGBTQが出てくる事で性別を過度に意識し始める。意識し始めることで、違いが強調されるようになる。違いの強調が「あなたと私は違います」という分断を深めていく感じ。

 

性自認の話に限らず、人種の話もそうだし、「どこにもない個性的な家を建てたい」「見たこともない映画を作りたい」や「聞いたこともない音楽を作りたい」など。

あるものから解放されたと思った時に、実は未だに誰よりもそこに執着している自分に気付く。

音楽の世界だと、ひたすらに解放を求めた結果、トラディショナルな場所に戻ってくる方を見かけることがあります。

それこそ、派手な化粧をして、奇抜な形のギターを持って、「商業音楽なんてクソだよ」と叫び倒していた方が、晩年には化粧もせずスーツ姿にストラトキャスター持ってブルースをやってる的な感じでしょうか。

それは、実はそこに執着していた自分に気付いたからなのかもしれないなと思ったりします。

 

人種であれば、映画で「黒人と白人と黄色人をバランスよく出演させよう」というのは、執着の分かりやすい例と言いますか。

ひたすら人種について考えてしまっている。

それは差別を消す行動ではなく、差別意識から生まれるカウンター文化でしかなかったりします。

カウンターなので、出発点は同じ。行き着いた場所が差別であれ「バランスよく人種を登場させよう」であれ、同じグループでしかないのかもしれません。

その先には「解放」は存在しないように思ったりします。

解放のためには、出発点を変えることが大切なのではないかと思います。

変える、というより、元に戻す、と言った方が正確かもしれませんが。

「いろんな人種がいるよね」とか「色んな性自認があるよね」とかではなく。

そこには実は何もない。

人種?そんなの無いよ。性自認?そんなの無いよ。

人が、後から学問的に分けただけで。

という感じで。

究極の話、人は「食って排泄し、酸素を吸って二酸化炭素を吐く、2種類の身体構造(男女と呼ぶわけですが)により生殖する生き物」です。

「地球の表面にすみつく、酸素を二酸化炭素に分解する微生物の一つ」と言ってもいいかもしれません。

犬も猫も一緒。昆虫も一緒です。

そんな中の「人間」という狭い世界で「俺は東大だ」「私は〇〇の資格がある」「チャンピオンだぞ」「日本人は真面目!」「頭の悪い人がいるんだよな」「ビジネスで成功する法則」「白人は偉大である」「差別をなくせ」などと小さな違いを強調してやりあっている姿を、何とも思わなくなれば、それが解放ではないかと。

仏教で言う、「悟り」と言いますか。

そんなんで競争社会を乗り切れないぞ!生き残れないぞ!現実を見ろ!

なぁんて言ってる酸素を分解する微生物もいる訳ですけれども。

いやぁ、生き残ってますよね。普通に。

もし生き残れないとすれば、生き残れない仕組みを「人が」「後から」作っただけでしかなく。

そういう仕組みを作って「生き残れないぞ」とマッチポンプ式に叫んでいると言いますか。

実はその「後付けの仕組み」を変えてさえしまえば、生命として問題なく生き残れる。

思想としてはむしろ長く生き残っていたりします。

 

「あなたと私は違います」を大切に思っているのかもしれませんが、行き着きたい場所は「あなたと私は同じです」なのではないかと思うわけです。

ゴールを間違えてしまうと、手段を間違えてしまう。

 

なぜ違いに苦しむのかというと、違いがあるからではなく、違いにとらわれているからではないか。

では解放とはどういう状態を指すのか?

それは「無思考」ではないでしょうか。

つまり性自認ならば「性について考えない」こと、人種なら「人種について考えない」ことが解放である。

 

人はもしかしたら、考えすぎているのかもしれません。

広大な宇宙の、地球という星に住み着く、酸素を分解する微生物。

多様性とは「違いを認め合いましょう」ではなく「違いなどない事を認めましょう」という話ではないかなぁなんて思ったりします。

NATOとロシアとウクライナと日本と

にわかに騒がしい世の中なわけですが。

NATOの事務所を東京に置くかどうかというニュースがあるので、深読み気分で。

 

ロシアのウクライナ侵略では、主に2つの学びを得たと思います。

1つめは、ロシアがNATO非加盟国であるウクライナに侵攻した口実の一つが「NATOの加盟」問題であったこと。つまり、ロシアは「NATOに加盟したいと表明した国を攻撃する」国であると学んだ。

 

2つ目は、NATO非加盟国を、NATOが守ってくれる訳ではないこと。つまり、ウクライナNATO非加盟国)は単独でロシアと戦うことになるのを学んだ。

 

ということは、それらを学んだ日本は、NATOの事務所を日本に置くことで、ロシアが日本に戦争を仕掛けてくるように仕組んでいて、なおかつ日本単独で戦うことを決めているように見えるんですよね。

 

真珠湾攻撃を日本が仕掛けてくるようにアメリカが仕組んだのと似ている。

日米戦争をアメリカが望んだ理由は、日本の同盟国であるドイツがいる欧州戦線に参戦したくてたまらなかったためだと何かで見ましたが。

日本政府は令和版日露戦争をやりたいのだろうか。

あるいはそうするようにNATOから言われて従っているのかもしれませんが。

とにかく日本は戦争をしたくてたまらないのかも知れません。

 

じゃあ、何のために?

 

交渉で戻ってこない「北方領土奪還」が目的ではなかろうかと。

ウクライナ戦で疲弊してきたロシアから軍事的に強奪して、ポーツマス条約的な何かで合法的に(?)奪い返してしまえという戦略なのかなとか思ったりしました。

スーパー極右思想って感じですが、岸田文雄さんは日本会議メンバーで神道政治連盟メンバーですから、まぁスーパー極右なのかもしれませんね。

 

自民党支持層の中の極右思想の方からすれば、たまらん戦略なのかもしれないなぁなんて思います。

 

ただまぁ、もしそうなら大日本帝国真珠湾攻撃が「アメリカに引き摺り込まれた自衛の戦争だった、アメリカは卑怯だ」と言ってる方々なのに、そのアメリカと同じやり口(?)でロシアを戦争に引き摺り込むって、なんか単なる卑劣な国だなと思ってしまいますが。

日本は大日本帝国の時、対華二十一ヶ条要求など火事場泥棒のように強奪していた国でもありますので、相変わらず反省もせず、その時のまま変わらない思想なのかもしれません。

防衛費が莫大に跳ね上がっていますので、準備中なのかも知れないですが。

「あくまで自衛です」という感じで戦争に進むのが「戦争遂行のための国策プロパガンダ10の法則」というものだと記憶していますが。

 

今の政府がウクライナ戦争で学んだ事が、「戦争を仕掛けさせることが出来れば、自衛と言うことができる」なのかもしれません。

自衛戦争なら日本も出来ますからね。

しかし、もしそんな下らない事を学んだのなら、情けないなぁなんて思ったりします。

北方領土奪還は話し合いでは無理だ!武力で取り返すしかない!しかし日本から戦争を仕掛けるわけにはいかない。ならば、ロシアから戦争を仕掛けさせれば良いんじゃないか?自衛と言えるじゃないか。、、、NATOか。ロシアを日本との戦争に引き摺り込め!」

まさに極右の過激派って感じがしますが。

丸山穂高さんという国会議員が、そんな事言ってました。彼は維新の会をクビになりましたが、これに賛同する声が一部から上がっていました。

国会議員の中に、少なくとも1人は、そう考える人がいました。

今の国会議員の中に、そう考える人がどれくらいいるのかは分かりません。

今の政府の閣僚の中に、そう考える人がどれくらいいるのかもわかりません。

聞いても「そう考えている」と答える事はないでしょう。

ただ、日本には、日露戦争を「望んでいる」人が一定数存在するのは事実です。

そんな政治の道具的な戦略に巻き込まれて死ぬ自衛隊員もロシア兵も不憫です。

自衛隊員の命をコマとしか思ってないのかもしれないなぁと思ったり。

そんなやり方までして仮に取り返せたとして、「ついに北方領土の主権を取り返したぞー!」とか言うんでしょうね。やり方を批判したら「自衛だぞ!どんな理由であれ攻撃してきた奴が悪いんだ!しかも、自国領土を取り戻したのに批判するなんて!日本人じゃねぇな!ロシアを利するのか!」って言うんでしょうなぁ。

そのために「ウクライナでロシア系民族を弾圧してたって?ロシアの肩を持つのか?どんな理由であれ侵攻したロシアが悪いんだ!」というプロパガンダを流布してるんでしょうかね。

どんな理由であれ?大量破壊兵器を開発してる疑いがあろうとも、イラクを侵略したアメリカが悪いとは言わないんですよねー、彼らは。

どんな理由であれ侵略したアメリカを日本は支持して、どんな理由であれ侵略したロシアを日本は非難する。これぞプロパガンダと言いますか。

アメリカのは自作自演ですからタチ悪いですがね。

いやー、日本に危険な人がいるよなぁと思っていますが。

日本が負ける事考えてないのかもしれませんね。焦土と化すかもしれませんし。

プーチンさんは以前「アメリカは日本に核兵器を使っただろう」と言っていました。

これはつまり、ロシアが「アメリカも日本には核兵器落としたろう?我が国も同じ国に同じ事をするだけだ。批判するならアメリカにも同じ批判をしろよ。無理だろうけどな。」とか言って核兵器撃ってくるかもしれないという事だと思っています。

アメリカもNATOも日本も何も言えなくなるでしょうね。広島長崎への原爆投下という犯罪に対する制裁を放棄あるいは正当化したがゆえに自縄自縛に陥るわけで。

 

ということで、日本が戦争しないことを祈りましょうー。

映画「えんとつ町のプペル」 アトラクション体験映像作品でしょうか

キングコング西野亮廣さんの作品ですね。

思いっきりネタバレ含むので、見たくない方はお引き取りいただきますよう。

この映画の印象を結論から先に書きますと、絵本の世界からそのまま飛び出したような映画で、アトラクション体験映画としてよく出来た作品です。一方で、ストーリーやメッセージ等は安直な感じでしょうか。

 

1つ目の「アトラクション体験映画」の切り口から書きますと。。
「映画館で遊園地気分を味わう」ような印象です。

ディズニーを超える!ということを西野さんは話していますが、色んなアトラクション体験を、遊園地ではなく映画館で出来ると思います。映像体験をとても重視しているというか。映像もめちゃ綺麗ですし、声優さんもよくて、その目的は達成しているんじゃないかなと。そういう楽しみ方をすると、シンプルに楽しめる作りです。

 

一方で、物語やメッセージは個人的にはかなり残念でした。キャラクターやストーリーの設定とか設計の話なんですけども。

 

ストーリーの設計から話しますと。

この物語の登場人物「ゴミ人間プペル」はルビッチの父親の死後の魂が乗り移った存在です。

プペルが生前の夢を叶えるために終始奔走しています。一方でルビッチはプペルが父親とは気づいていませんが、「星はあるかも知れない」と声を上げています。夢を叶えるための具体的な努力や覚悟や行動はありません。まぁ子供ですからそうでしょう。

ざっくり言うとこの物語は「息子(ルビッチ)に星を見せたい!という生前の夢を叶えた父親(プペル)の物語」という感じだと思います。


ルビッチは夢を叶えるわけではなく、ルビッチはただ死後の父親に星を見せてもらった10歳の少年です。

まぁタイトル通り、プペルの物語。ルビッチは脇役なのかも知れませんが。

この構造が、上手く働いていれば良いのですが、あまり上手く機能していない感じなんですよね。

一見するとルビッチが「星を見たい」という夢を叶える物語で、「何も努力しなくても、夢があるんだと叫んでるだけで、誰かが夢まで連れてってくれるよ」みたいになる。プペルの夢実現物語として見ると、死んだ後だし、夢を叶えるのに、間に合ってるのか間に合ってないのか分からない。

ルビッチの夢は星を見ることじゃない、という設定だとすると、プペルの一方的な夢に巻き込まれただけの子供みたいに見えたりもします。

プペル(父親)に強引に振り回されるかわいそうな子供の物語が並行して進んでいる感じ。


なんというか、物語をどう追っても、メッセージがとっ散らかっているような印象になってしまうと言いますか。

 

もうひとつ残念なのが、キャラクター設定です。キャラクターがあれだけ出てくるのに、物語に深みを持たせられないのは、キャラクター設定や使い方が良くないからだと思える。

とにかくキャラクターの性格が分からない。

主人公の1人、脇役かな?ともかく、ルビッチの性格ですら、よく分からない。


脇役も「話し方の癖」みたいなものがあるのですが、性格がわからない。

最悪、一人一人に深みがなくても良いのだけど、だとすれば何人かのキャラクターを使って物語に深みを持たせるものだと思いますが、そうでもない。


もう少し具体的に言うと、例えば、物語の中で示される「夢をバカにする理由」は「もし誰かが叶えてしまったら、諦めた自分がバカみたいだから」という1つの理由しか出てきません。

しかも、安直なことにキャラクターのセリフとしてやっちゃう。

せめて物語の流れや絵を見て、観客が気付くようにしてほしい気がしますが、それを除いても、「他者の夢をバカにする」理由が1個。だけ。

それだけ?そんな単純化してしまうの?と。


1人の人間でも、行動の理由は山のようにあるのが現実ですよね。そういうのが、個人の深みでもあり、世の中の深みでもある。

そういう深みを持たせるためには、1人のキャラクターをもっと深掘りして内省させて描写するのが1つの方法ですが、それはない。

もう一つの方法は、複数のキャラクターを使い分けて、「A君はこう言う理由でバカにする、Bさんはまた別の理由を語る、C君はルビッチが嫌いだから、D君は夢を叶えたが大切な仲間を失って「人生における本当の幸せとは夢を叶えることではなかった」と気づいた、E君は叶えた夢が想像より楽しくなかった、それでもなお不幸も何もかも覚悟して不幸になっていてもそれを受け入れてルビッチは夢を叶える」みたいな感じでその複雑さを表現すると、物語は深くなるわけですが、それもない。

何と言いますか、安直です。

キャラクターと物語が安直で、メッセージも安直。

 

物語の中で、それぞれに物語を“つむぐため”の「人々の人生」が無いといいますか。物語を進めるための進行役はいるんですけどね。


よく、漫画でもアニメでも、クリエイターは「キャラクターが勝手に動き出す」と言います。これはキャラクターに魂が宿ってるからだと思います。

このえんとつ町のプペルは、与えられた物語を進行する役割をこなす魂のこもらない演者さんがたくさんいる感じでした。

キャラクターが実際にそこに住んでいて物語がつむがれていくのではなく、物語をキャラクターが脚本に沿って進行している感じかな。


物語にまた戻りますが、

遊園地に来て、「次はこのアトラクション!次はコレに乗りたい!」的な物語の展開でして、アトラクションの順番は変わっても何も問題がない感じです。

小学生的な日記になるというか。

「今日はプペル君と遊園地に行きました。ジェットコースターとか観覧車とかに乗りました。ジェットコースターではぶつかりそうな気になって怖かったです。最後に星を見るアトラクションに乗りました。星を見るアトラクションに絶対に乗りたかったので、嬉しかったです。」という日記ですね。そういう物語。

物語としてはつながりがなくて、ツギハギだらけの感じです。キャラクターが進行役でしかなく。

脚本がうまくいけば、これがただのアトラクション体験映像作品だけでなく、物語としてつながるのかなぁと思うと、脚本が良くないのかなぁ。


最後に、メッセージについて感じたことを。

プペルの物語のメッセージは、「何を言われても夢を追いかけていこう!夢を追いかけるのは素晴らしい!」ではなく、「夢を追うものの邪魔をするな愚民ども!」という怒りとも悲しみとも絶叫とも言えるメッセージが強い。

少なくとも僕はそういう風に感じました。

「夢を批判する人🟰ダメな人」という安直な方程式の上にしかない感じで、これもまた世の中の複雑性への理解の欠落を見る感じです。

表出しているのは、ルビッチやプペルが夢を追う姿の描写なのですけど。そこはかとない怒りのようなものが作品全体を覆っている。

その怒りを「夢を追うことは素晴らしい」というオブラートに包んでキラキラした描写で覆い隠して作品にしているのであろうけども、隠しきれないドス黒い感情があって、本当はそれが言いたくてこの作品は出来上がっているように思いました。


まとめると、「アトラクション体験映像作品」として作っていて、そういう意味では良くできています。ビジネス臭プンプンしますが、ビジネスモデルとしてもよく練られてる感じ。一方で、物語やキャラクター設定が雑。メッセージが黒い。という感じです。


ともあれ。


もはやメッセージもストーリーも何もかもかなぐり捨てて「アトラクション体験映像作品」という、もうそのためだけと言ってもいいような映画の作り方にしてしまった方がよほど西野さんらしいんじゃないかと思ったりしました。

個人的には、物語やキャラクターの魅力はありませんでしたが、「アトラクション体験映像作品」という観点ではとても面白かったんですよね。

変なメッセージやら思想やらキャラクターが物語を浅くしてしまっているというか。
プペルの心臓がぶっ飛んでいくエンディングでしたから、2作目も考えてるんだろうけども。

これは第一作目ですから、とりあえずアトラクション体験映像作品の第二弾は、もうアトラクション体験全振りでやってもらったら良いのではなかろうかと思いました。

就活の面接で見られる 大事な事

 就活の面接で見られる事って、色々あると思いますが。

大事なことの一つは、「綺麗な表現で本音を伝えられるかどうか」ではないかなぁと思ったりしています。

ビジネスの場では、本音を綺麗な言葉で伝えなければなりません。

「変な人ですよね、あの人」

ではなくて、

「個性的ですよね、あの人」

と言える能力があるかどうかは、思ってる以上に重要な気がします。


「弊社の志望動機は?」

「給料です!」

では困るわけですよね、社会人として。


入社して仮に営業していて、

「どうしてオタクと契約するの?」

「うちに利益が出るからです」

ではダメなので。


「おたくのところの利益ばっかりだな」と言われてしまえば、契約出来ません。

 


じゃあ、「利益なんて本当は求めていません!」と言えばいいのかというと、そりゃ嘘ですね。「じゃあタダで」と言われたら返す言葉もないですし。

 

「もちろん、我々も利益は大切ですので、利益を度外視してお付き合いすることは出来ません。ただ、利益が上がれば何でも良いとも思っていません。我々がもし「利益さえ上がれば良い」と思っていたら、我々は別の売り方をしています。そんなのは我々の本当に望むものでもないし、お客様が望むものでもないと思っています。価格以上と言えるかはわかりませんが、価格に見合う商品とサービスはお届け出来ると思っています。ご満足頂きたいと思っています、決めるのはお客様ですが、少しだけお時間頂けませんか?」


会社に入ると、嘘をつかずに、建前でもなくて、どんだけ綺麗に本音を表現する能力があるか?という表現能力がとても大切な場面があったりするのではないかと思います。

面接で見られる大切な要素の一つが、その表現能力なのかなぁと。

もちろん、その表現されたことを実際に実行しているか?も見られますが。そっちは過去の話をするしかなく、目の前で見られないので、信じるか信じないか相手に委ねられています。

なので、面接の場で、目の前で見られるのは、主にその表現能力になる。


「あいつ上手いこと言って面接通りやがった」なんて思ってしまうのですが、上手いこと言う能力が社会人としてとても大切であるということかもしれません。

まぁ口だけ上手い人もいますので、なんともかんともですけど。

面接で、「志望動機は何ですか?」に、嘘をつかずにどんだけ綺麗に本音を表現出来るかは、まぁとても大切なんだと思ったりします。

 

悪口を要望に言い換えてみたり、怒りを提案に変えてみたり、自分は本当は何を伝えたくてそんな感情になっているのかを、立ち止まって考えてみる訓練は有効かもしれません。

 

就活をされるみなさま。面接、頑張っていきましょう。

「核の傘」っていう表現

核の傘」という表現があります。

「日本はアメリカの核の傘に守られている」といった使い方がされます。

「傘?よ、弱そう、、、」と思われたことありません?

今回はそんなお話です。

 

傘は雨をしのぐ道具ですが、雨をしのぐには弱い。

家じゃないし、屋根でもない。

ザコいなと。

この表現は、適当に作ったわけではないと思います。

「なんとなく傘にしよう」ではない。

明確な意図や理由や根拠があって、無数にある候補の中から表現は絞り込まれて、公表されます。

例えば「核の壁」とか「核の盾」とか、いくらでも表現はあり得るわけですからね。比較して「核の傘」は弱そうですよね。

これは他の人が言うのではなく、核保有国のアメリカ自身が言う表現です。「ニュークリア・アンブレラ」ですね。なぜそんな脆弱な「傘」にしたのか?という話になります。

 

結論から言えば、そのまんま、脆弱だからではないかと。

 

「傘」とはどれくらいの役割を果たすかは、よく知ってると思いますが。

ビニール傘だろうと、高級なブランド傘だろうと和傘だろうと、足元が濡れたりカバンが濡れたりするのは風が吹かなくても当たり前のようにおこります。

風が吹いて横殴りの雨になれば、まぁまぁ濡れます。それでも、頭は濡れませんが。

しかしそれでも、強風が吹こうものなら簡単に傘はひっくり返ってずぶ濡れです。

傘の防衛力なんて、その程度でしかない。

カバンは濡れても、体は濡れないようにと傘はさしますが。

雨がやむまで雨宿りしたり外出しない方がよっぽど濡れないですよね。

 

ひるがえって、核の傘です。

核の傘」という表現は、一見、日本は傘に覆われて雨から守られている気がします。

 

しかし、地図を眺めると、日本はアメリカの核の傘の「はしっこ(カバン?)」です。アメリカは核の傘の「真ん中(頭?)」ですね。

傘の雨風に対する防衛力をそのまま当てはめると、「日本は一番濡れる場所にいて、アメリカはあまり濡れない場所にいる」わけです。

ちょっと風が吹いて雨が横殴りになろうものなら日本はもっと濡れる一方で、アメリカはまだ平気です。

突風が吹いて傘がひっくり返ると日本はずぶ濡れ、そこでようやくアメリカは濡れるわけです。

カバン(日本)は濡れても良いから、体(アメリカ)は濡れないように傘はさします。

 

核の傘」言い得て妙な表現だなと思いませんか。よく練られています。

ザッツ「ニュークリア・アンブレラ」。日本は核兵器によってボロボロになることをアメリカは暗示している表現、という感じです。

 

「屋根」や「建物」や「シェルター」ではないですからね。所詮、雨を防ぐには余りにも力不足な「傘」です。

それは現実にそうで、核の傘(あるいは核兵器)なんてものは抑止力として実はあまりにも脆弱なモノなのかもしれません。

それを揶揄する感じで「核の傘」なんて表現を使っているのだろうか?

あるいは「この表現の真意に気付く人だけでも気付いてもらいたい、そして声をあげてもらいたい」という願いがあるのでしょうか。

そんなものに守られてるつもりになってるのだとすれば、相当国防意識が甘いんじゃないかと思えたりもします。

 

「じゃあ核を自分で持てば良いのではないか?」みたいな話まで出てくるのですが、所持している核保有国にとってすら所詮傘程度の防衛力にしかならないわけで、そんな脆弱な防衛システムに依存することに何の意味があるのかなと考えてしまったりもします。

外出控えたり雨宿りしてた方が良いよね。

 

揶揄ではなく、実際に日本に被害が出た時に「傘があったのでカバンは被害はうけたが中枢(アメリカ)は守られた。最初から傘だと言ってましたよね?傘ですよ?」とかいう下らない言い訳のためなのかもしれませんが。

核の傘、ザコいな、、、というのがこの表現に対する個人的なイメージでして。しかし、言い得て妙です。

 

現実の戦争になれば通常兵器でひたすら殴り合うことになるのは自明です。核兵器は、何やらたいそうな大義名分を用意出来るまでは使えないっぽいですからね。日米戦争よりも長期に渡ったベトナム戦争ですら核兵器を使えなかった(日本に使った理由「戦争の早期終結」すら理由にできなかった)わけで。

使用した瞬間に大量の民間人巻き添え虐殺確定の兵器(いまや色んな場所に色んな国籍の人たちが滞在してますから、日本に打ち込んだら日本人だけでなく日本にいる中国人もアメリカ人も韓国人もフランス人も殺すことになる兵器ですね)なんか、そもそも使える理由がないのかもしれませんが。

消滅するのは人だけではありません。犬も猫も、鹿も熊も鳥も、アリも蜂も、沢山の草木も、そこに生きる全ての生命が消滅します。関係ないのに。本当に身勝手な兵器だよなぁと思います。地球に生きる生命に対する畏敬の念がどっかいっちゃってるんじゃないかと。

そんな畏敬の念がどっかいっちゃってる彼らとて、核兵器が使えるほぼ唯一と言っても良い理由として使いそうなのは、「核兵器を使われた時」かもしれません。

とすると、核による抑止(核による威嚇)は核保有国にしか働かない事になります。

核兵器保有しない国に対しては使える理由がないので、何の脅しにもならないことになります。

相互確証破壊は、核保有国同士だけの話で、非核国には無関係な話になるのかもしれません。

核による威嚇なんて、核保有国同士だけで勝手にやっとけよ、という感じでしょうか。

とするならば、核兵器を持たない方が核攻撃の脅威に対しては安全かもしれませんね。

核の傘」と「非核の屋根」という表現になるかもしれないし、上述のように核を持たない国には核兵器が使われるリスクが無い(雨が降らない)とすれば、「曇り空の核保有国」と「快晴の非核国」なのかもしれません。

必死に「傘」にしがみついてカバンやら足元を濡らしながら雨をしのぐよりは、「非核の屋根」を広げて、ゆったりと沢山の人が雨宿り出来る方が楽だし安全かもしれません。

自由に使える兵器なら、ロシアは1発目からウクライナに打ち込めば良かったわけですが、それをせずに、最初からおそらく最後まで通常兵器で殴り合うのではないかと思います。ウクライナも、ロシアの核攻撃の脅威を本当に恐れていたら反撃なんてそもそも出来ないのが現実だったりするでしょう。恐れてたら抑止が効いて、そもそも反撃なんて出来ない。ウクライナがロシアに反撃できるのは、核を持たない国には核抑止が効かないことがわかっているからかもしれません。そんな事実が世界に知れ渡ってしまったのが現在位置かなと。

事実上核兵器は使えないハリボテで、実戦では通常戦力だけが頼りっぽいです。

その事実を見るだけでも、抑止力としても戦力としてもハリボテにしか見えなくなってくるわけで。

とすると、抑止力としても戦力としても機能するのは通常兵器だけだと言いたいのかと思われるかも知れませんが、そういう話ではありません。

 

かつて、みんなが幻想にとらわれたのではないかと思います。「核兵器があれば戦争に勝てる」と。「核兵器を持てば強い国になれる」と。アメリカが核兵器を日本に使用して戦争に勝った、事になっていたからです。

しかし、1945年以降、核保有国のアメリカは、非核国と戦争をし続けて、ことごとく戦争に勝てません。勝利といえるものは湾岸戦争で他の国と一緒に大挙して勝ったくらいのもので、朝鮮戦争でギリギリ引き分け、ベトナムで負け、アフガニスタンから撤退した。

核兵器なんか使えないから通常戦力のプラスとしてはゼロにしかならない、ゆえにアメリカに対する反撃も余裕で許してしまって抑止力にすらなりませんでした。

通常戦力でひたすら殴り合いを続けていると、別に戦争に勝てるわけでもない。

アメリカが弱いと言ってるのではありません。

核兵器があれば戦争に勝てる」というのも「核兵器を持てば強い国になれる」というのも、現実ではなかったという話です。幻想ですかね。

核兵器なんか持っていても戦争に勝てないし、アメリカより核兵器の少ない中国にも経済的に圧倒されるわけで強い国ですらない、というのが現実だったと証明されてしまっているような感じです。

原発安全神話」が崩れ去って久しいわけですが、「核兵器脅威神話」ももはや崩れ去っているのかもしれません。

核の傘」は、そんな神話の崩壊を的確に表しているかのように思ったりするわけです。

 

核の傘」、色んな意味でよく出来た(?)表現だなぁと。

「〇〇らしさ」の良し悪し

 「男は男らしく」「女は女らしく」

「日本人ならば」

最近は、こういうのがタブー視されつつあります。

自分はあくまで自分。

「女は女らしく」みたいな他人が作ったステレオタイプに、自分が食い潰されるのは避けたい。

自分らしく生きることは、やっぱり邪魔されるのは嫌だなと思います。

 


昔はそういう時代だったのかもしれないけど、価値観はやっぱり変わっていくわけで。

多様性の時代が、やっと訪れつつある、とも言えます。

 


しかしです。

自分らしさは自分で見つけるしか無いし、他人から教えて貰うようなものでもありません。


かつては、「男らしさ」や「女らしさ」なんかは、教えることが出来たし、聞くこともできました。

テンプレートがあったからですね。

「男だったら、女には優しくするんだよ」「女は男を立てるんだよ」「女はおしとやかに」「男なら立ち上がれ」

みたいな。

こういうものはなぜ生まれるのかという理由を先に考えてみたいんですが。

例えば、「男なら立ち上がれ」という言葉が生まれるゆえんは、それを出来ない男が多かったからとも言えるかもしれません。

「女はおしとやかに」も同じく、それを出来ない女が多かったからとも言えるかも知れない。

つまり、男は本質的に弱虫で、女には「立ち上がれ」なんて言う必要もないくらい強かったとも考えられるということ。

確かに女は昔から強い。うん。まぁそれはいいや。


ある学者さんが、「中国で儒教が広まったのは、中国にいた人たちが約束を守らず対人関係を蔑ろにしていたから」と言われていたのを聞いたことがあります。


つまり、思想関連の話は、「やってないからこそ」「出来ないからこそ」広まる、という側面はあるのかもしれません。


男らしく、女らしく、は、「出来ないことを押しつけられる」と言う意味で生きづらいのかもしれません。


一方で「自分らしさ」は、答えがないわけです。

答えなきものを、誰にも教わらずに、自分で見つけるしかないのが、多様性とも言えます。


それは本当に、人間にとって生きやすいのだろうかとも思うんです。

「自分探しの旅に出ます」なんてのがありますが、そういうことをしても見つからないかもしれません。

正解がないので、指針も含めてさっぱり分からないわけです。


多様性はとても大切で、ステレオタイプを押しつけられるよりはよほど良いと思いますが、「生きやすさ」という切り口で見れば、いずれも生きづらさはあるだろうと思えます。

ステレオタイプの時代は人間にとってある意味では「楽だった」とも言えます。

迷った時に、指針があるし、答えもあったから。


選択の余地がないことは、良くも悪くも考えなくて良いわけです。逆に、他の事を考える時間がある、とも言えます。


多様性の時代は、内省の時代なのかもしれません。ひたすら自分と向き合う時間が必要であり、他の事を考える時間が昔と比べて相対的に少なくなるのかもしれません。

「私らしさって、何なのだろう?」

「僕らしさって何?」

「自分はどんな人間なんだろう?」

という、見つからない答えを自問する感じでしょうか。


宗教が広まった時代は「理想の人間像」を追い求めた時代であろうし、次に「理想の国民像」、「理想の家族像」、「理想の男女像」と時代が進むにつれ細分化して個人化していき、今は「理想の自分像」を追い求める時代になっているのか?

次はどうなるのか分かりませんが、変遷を見ていると、もっと細分化していくのかもしれません。


いずれにせよ、この多様性ゆえの、もしかすると生きづらい状況を、ではどうやったら打破できるか?というのが、これからの時代には必要なのかもしれないと思ったりします。