深読み気分を満喫するブログ

人生とはなんぞや?人間とはなんぞやー?

「〇〇らしさ」の良し悪し

 「男は男らしく」「女は女らしく」

「日本人ならば」

最近は、こういうのがタブー視されつつあります。

自分はあくまで自分。

「女は女らしく」みたいな他人が作ったステレオタイプに、自分が食い潰されるのは避けたい。

自分らしく生きることは、やっぱり邪魔されるのは嫌だなと思います。

 


昔はそういう時代だったのかもしれないけど、価値観はやっぱり変わっていくわけで。

多様性の時代が、やっと訪れつつある、とも言えます。

 


しかしです。

自分らしさは自分で見つけるしか無いし、他人から教えて貰うようなものでもありません。


かつては、「男らしさ」や「女らしさ」なんかは、教えることが出来たし、聞くこともできました。

テンプレートがあったからですね。

「男だったら、女には優しくするんだよ」「女は男を立てるんだよ」「女はおしとやかに」「男なら立ち上がれ」

みたいな。

こういうものはなぜ生まれるのかという理由を先に考えてみたいんですが。

例えば、「男なら立ち上がれ」という言葉が生まれるゆえんは、それを出来ない男が多かったからとも言えるかもしれません。

「女はおしとやかに」も同じく、それを出来ない女が多かったからとも言えるかも知れない。

つまり、男は本質的に弱虫で、女には「立ち上がれ」なんて言う必要もないくらい強かったとも考えられるということ。

確かに女は昔から強い。うん。まぁそれはいいや。


ある学者さんが、「中国で儒教が広まったのは、中国にいた人たちが約束を守らず対人関係を蔑ろにしていたから」と言われていたのを聞いたことがあります。


つまり、思想関連の話は、「やってないからこそ」「出来ないからこそ」広まる、という側面はあるのかもしれません。


男らしく、女らしく、は、「出来ないことを押しつけられる」と言う意味で生きづらいのかもしれません。


一方で「自分らしさ」は、答えがないわけです。

答えなきものを、誰にも教わらずに、自分で見つけるしかないのが、多様性とも言えます。


それは本当に、人間にとって生きやすいのだろうかとも思うんです。

「自分探しの旅に出ます」なんてのがありますが、そういうことをしても見つからないかもしれません。

正解がないので、指針も含めてさっぱり分からないわけです。


多様性はとても大切で、ステレオタイプを押しつけられるよりはよほど良いと思いますが、「生きやすさ」という切り口で見れば、いずれも生きづらさはあるだろうと思えます。

ステレオタイプの時代は人間にとってある意味では「楽だった」とも言えます。

迷った時に、指針があるし、答えもあったから。


選択の余地がないことは、良くも悪くも考えなくて良いわけです。逆に、他の事を考える時間がある、とも言えます。


多様性の時代は、内省の時代なのかもしれません。ひたすら自分と向き合う時間が必要であり、他の事を考える時間が昔と比べて相対的に少なくなるのかもしれません。

「私らしさって、何なのだろう?」

「僕らしさって何?」

「自分はどんな人間なんだろう?」

という、見つからない答えを自問する感じでしょうか。


宗教が広まった時代は「理想の人間像」を追い求めた時代であろうし、次に「理想の国民像」、「理想の家族像」、「理想の男女像」と時代が進むにつれ細分化して個人化していき、今は「理想の自分像」を追い求める時代になっているのか?

次はどうなるのか分かりませんが、変遷を見ていると、もっと細分化していくのかもしれません。


いずれにせよ、この多様性ゆえの、もしかすると生きづらい状況を、ではどうやったら打破できるか?というのが、これからの時代には必要なのかもしれないと思ったりします。