「核の傘」という表現があります。
「日本はアメリカの核の傘に守られている」といった使い方がされます。
「傘?よ、弱そう、、、」と思われたことありません?
今回はそんなお話です。
傘は雨をしのぐ道具ですが、雨をしのぐには弱い。
家じゃないし、屋根でもない。
ザコいなと。
この表現は、適当に作ったわけではないと思います。
「なんとなく傘にしよう」ではない。
明確な意図や理由や根拠があって、無数にある候補の中から表現は絞り込まれて、公表されます。
例えば「核の壁」とか「核の盾」とか、いくらでも表現はあり得るわけですからね。比較して「核の傘」は弱そうですよね。
これは他の人が言うのではなく、核保有国のアメリカ自身が言う表現です。「ニュークリア・アンブレラ」ですね。なぜそんな脆弱な「傘」にしたのか?という話になります。
結論から言えば、そのまんま、脆弱だからではないかと。
「傘」とはどれくらいの役割を果たすかは、よく知ってると思いますが。
ビニール傘だろうと、高級なブランド傘だろうと和傘だろうと、足元が濡れたりカバンが濡れたりするのは風が吹かなくても当たり前のようにおこります。
風が吹いて横殴りの雨になれば、まぁまぁ濡れます。それでも、頭は濡れませんが。
しかしそれでも、強風が吹こうものなら簡単に傘はひっくり返ってずぶ濡れです。
傘の防衛力なんて、その程度でしかない。
カバンは濡れても、体は濡れないようにと傘はさしますが。
雨がやむまで雨宿りしたり外出しない方がよっぽど濡れないですよね。
ひるがえって、核の傘です。
「核の傘」という表現は、一見、日本は傘に覆われて雨から守られている気がします。
しかし、地図を眺めると、日本はアメリカの核の傘の「はしっこ(カバン?)」です。アメリカは核の傘の「真ん中(頭?)」ですね。
傘の雨風に対する防衛力をそのまま当てはめると、「日本は一番濡れる場所にいて、アメリカはあまり濡れない場所にいる」わけです。
ちょっと風が吹いて雨が横殴りになろうものなら日本はもっと濡れる一方で、アメリカはまだ平気です。
突風が吹いて傘がひっくり返ると日本はずぶ濡れ、そこでようやくアメリカは濡れるわけです。
カバン(日本)は濡れても良いから、体(アメリカ)は濡れないように傘はさします。
「核の傘」言い得て妙な表現だなと思いませんか。よく練られています。
ザッツ「ニュークリア・アンブレラ」。日本は核兵器によってボロボロになることをアメリカは暗示している表現、という感じです。
「屋根」や「建物」や「シェルター」ではないですからね。所詮、雨を防ぐには余りにも力不足な「傘」です。
それは現実にそうで、核の傘(あるいは核兵器)なんてものは抑止力として実はあまりにも脆弱なモノなのかもしれません。
それを揶揄する感じで「核の傘」なんて表現を使っているのだろうか?
あるいは「この表現の真意に気付く人だけでも気付いてもらいたい、そして声をあげてもらいたい」という願いがあるのでしょうか。
そんなものに守られてるつもりになってるのだとすれば、相当国防意識が甘いんじゃないかと思えたりもします。
「じゃあ核を自分で持てば良いのではないか?」みたいな話まで出てくるのですが、所持している核保有国にとってすら所詮傘程度の防衛力にしかならないわけで、そんな脆弱な防衛システムに依存することに何の意味があるのかなと考えてしまったりもします。
外出控えたり雨宿りしてた方が良いよね。
揶揄ではなく、実際に日本に被害が出た時に「傘があったのでカバンは被害はうけたが中枢(アメリカ)は守られた。最初から傘だと言ってましたよね?傘ですよ?」とかいう下らない言い訳のためなのかもしれませんが。
核の傘、ザコいな、、、というのがこの表現に対する個人的なイメージでして。しかし、言い得て妙です。
現実の戦争になれば通常兵器でひたすら殴り合うことになるのは自明です。核兵器は、何やらたいそうな大義名分を用意出来るまでは使えないっぽいですからね。日米戦争よりも長期に渡ったベトナム戦争ですら核兵器を使えなかった(日本に使った理由「戦争の早期終結」すら理由にできなかった)わけで。
使用した瞬間に大量の民間人巻き添え虐殺確定の兵器(いまや色んな場所に色んな国籍の人たちが滞在してますから、日本に打ち込んだら日本人だけでなく日本にいる中国人もアメリカ人も韓国人もフランス人も殺すことになる兵器ですね)なんか、そもそも使える理由がないのかもしれませんが。
消滅するのは人だけではありません。犬も猫も、鹿も熊も鳥も、アリも蜂も、沢山の草木も、そこに生きる全ての生命が消滅します。関係ないのに。本当に身勝手な兵器だよなぁと思います。地球に生きる生命に対する畏敬の念がどっかいっちゃってるんじゃないかと。
そんな畏敬の念がどっかいっちゃってる彼らとて、核兵器が使えるほぼ唯一と言っても良い理由として使いそうなのは、「核兵器を使われた時」かもしれません。
とすると、核による抑止(核による威嚇)は核保有国にしか働かない事になります。
核兵器を保有しない国に対しては使える理由がないので、何の脅しにもならないことになります。
相互確証破壊は、核保有国同士だけの話で、非核国には無関係な話になるのかもしれません。
核による威嚇なんて、核保有国同士だけで勝手にやっとけよ、という感じでしょうか。
とするならば、核兵器を持たない方が核攻撃の脅威に対しては安全かもしれませんね。
「核の傘」と「非核の屋根」という表現になるかもしれないし、上述のように核を持たない国には核兵器が使われるリスクが無い(雨が降らない)とすれば、「曇り空の核保有国」と「快晴の非核国」なのかもしれません。
必死に「傘」にしがみついてカバンやら足元を濡らしながら雨をしのぐよりは、「非核の屋根」を広げて、ゆったりと沢山の人が雨宿り出来る方が楽だし安全かもしれません。
自由に使える兵器なら、ロシアは1発目からウクライナに打ち込めば良かったわけですが、それをせずに、最初からおそらく最後まで通常兵器で殴り合うのではないかと思います。ウクライナも、ロシアの核攻撃の脅威を本当に恐れていたら反撃なんてそもそも出来ないのが現実だったりするでしょう。恐れてたら抑止が効いて、そもそも反撃なんて出来ない。ウクライナがロシアに反撃できるのは、核を持たない国には核抑止が効かないことがわかっているからかもしれません。そんな事実が世界に知れ渡ってしまったのが現在位置かなと。
事実上核兵器は使えないハリボテで、実戦では通常戦力だけが頼りっぽいです。
その事実を見るだけでも、抑止力としても戦力としてもハリボテにしか見えなくなってくるわけで。
とすると、抑止力としても戦力としても機能するのは通常兵器だけだと言いたいのかと思われるかも知れませんが、そういう話ではありません。
かつて、みんなが幻想にとらわれたのではないかと思います。「核兵器があれば戦争に勝てる」と。「核兵器を持てば強い国になれる」と。アメリカが核兵器を日本に使用して戦争に勝った、事になっていたからです。
しかし、1945年以降、核保有国のアメリカは、非核国と戦争をし続けて、ことごとく戦争に勝てません。勝利といえるものは湾岸戦争で他の国と一緒に大挙して勝ったくらいのもので、朝鮮戦争でギリギリ引き分け、ベトナムで負け、アフガニスタンから撤退した。
核兵器なんか使えないから通常戦力のプラスとしてはゼロにしかならない、ゆえにアメリカに対する反撃も余裕で許してしまって抑止力にすらなりませんでした。
通常戦力でひたすら殴り合いを続けていると、別に戦争に勝てるわけでもない。
アメリカが弱いと言ってるのではありません。
「核兵器があれば戦争に勝てる」というのも「核兵器を持てば強い国になれる」というのも、現実ではなかったという話です。幻想ですかね。
核兵器なんか持っていても戦争に勝てないし、アメリカより核兵器の少ない中国にも経済的に圧倒されるわけで強い国ですらない、というのが現実だったと証明されてしまっているような感じです。
「原発安全神話」が崩れ去って久しいわけですが、「核兵器脅威神話」ももはや崩れ去っているのかもしれません。
「核の傘」は、そんな神話の崩壊を的確に表しているかのように思ったりするわけです。
「核の傘」、色んな意味でよく出来た(?)表現だなぁと。