ある事柄からの解放を望む姿は、そこに誰よりも囚われているようにも見えたりする事があります。
例えば、性自認の話だとすると。
こういう思考というものが、「性からの解放」のように見えると同時に、「性に囚われている」ようにも見えたりする、という感じです。
元来性別を特に意識せずに生きていたのが、LGBTQが出てくる事で性別を過度に意識し始める。意識し始めることで、違いが強調されるようになる。違いの強調が「あなたと私は違います」という分断を深めていく感じ。
性自認の話に限らず、人種の話もそうだし、「どこにもない個性的な家を建てたい」「見たこともない映画を作りたい」や「聞いたこともない音楽を作りたい」など。
あるものから解放されたと思った時に、実は未だに誰よりもそこに執着している自分に気付く。
音楽の世界だと、ひたすらに解放を求めた結果、トラディショナルな場所に戻ってくる方を見かけることがあります。
それこそ、派手な化粧をして、奇抜な形のギターを持って、「商業音楽なんてクソだよ」と叫び倒していた方が、晩年には化粧もせずスーツ姿にストラトキャスター持ってブルースをやってる的な感じでしょうか。
それは、実はそこに執着していた自分に気付いたからなのかもしれないなと思ったりします。
人種であれば、映画で「黒人と白人と黄色人をバランスよく出演させよう」というのは、執着の分かりやすい例と言いますか。
ひたすら人種について考えてしまっている。
それは差別を消す行動ではなく、差別意識から生まれるカウンター文化でしかなかったりします。
カウンターなので、出発点は同じ。行き着いた場所が差別であれ「バランスよく人種を登場させよう」であれ、同じグループでしかないのかもしれません。
その先には「解放」は存在しないように思ったりします。
解放のためには、出発点を変えることが大切なのではないかと思います。
変える、というより、元に戻す、と言った方が正確かもしれませんが。
「いろんな人種がいるよね」とか「色んな性自認があるよね」とかではなく。
そこには実は何もない。
人種?そんなの無いよ。性自認?そんなの無いよ。
人が、後から学問的に分けただけで。
という感じで。
究極の話、人は「食って排泄し、酸素を吸って二酸化炭素を吐く、2種類の身体構造(男女と呼ぶわけですが)により生殖する生き物」です。
「地球の表面にすみつく、酸素を二酸化炭素に分解する微生物の一つ」と言ってもいいかもしれません。
犬も猫も一緒。昆虫も一緒です。
そんな中の「人間」という狭い世界で「俺は東大だ」「私は〇〇の資格がある」「チャンピオンだぞ」「日本人は真面目!」「頭の悪い人がいるんだよな」「ビジネスで成功する法則」「白人は偉大である」「差別をなくせ」などと小さな違いを強調してやりあっている姿を、何とも思わなくなれば、それが解放ではないかと。
仏教で言う、「悟り」と言いますか。
そんなんで競争社会を乗り切れないぞ!生き残れないぞ!現実を見ろ!
なぁんて言ってる酸素を分解する微生物もいる訳ですけれども。
いやぁ、生き残ってますよね。普通に。
もし生き残れないとすれば、生き残れない仕組みを「人が」「後から」作っただけでしかなく。
そういう仕組みを作って「生き残れないぞ」とマッチポンプ式に叫んでいると言いますか。
実はその「後付けの仕組み」を変えてさえしまえば、生命として問題なく生き残れる。
思想としてはむしろ長く生き残っていたりします。
「あなたと私は違います」を大切に思っているのかもしれませんが、行き着きたい場所は「あなたと私は同じです」なのではないかと思うわけです。
ゴールを間違えてしまうと、手段を間違えてしまう。
なぜ違いに苦しむのかというと、違いがあるからではなく、違いにとらわれているからではないか。
では解放とはどういう状態を指すのか?
それは「無思考」ではないでしょうか。
つまり性自認ならば「性について考えない」こと、人種なら「人種について考えない」ことが解放である。
人はもしかしたら、考えすぎているのかもしれません。
広大な宇宙の、地球という星に住み着く、酸素を分解する微生物。
多様性とは「違いを認め合いましょう」ではなく「違いなどない事を認めましょう」という話ではないかなぁなんて思ったりします。